スタンリーのお弁当箱
と言っても、幼稚部にスタンリー君がいるわけではない、映画の話である。インドでは未だに5,000万人の若年労働者がいると言われている。その現実をお弁当箱を通して社会批判している映画が東京で上映されている。この映画を撮影するにあたって、キャストの子供達は一日も学校を休むこと無く、成績も落とすこと無く、また多くの保護者からの協力のもとで製作された社会性のある映画である。
スタンリーはムンバイにあるキリスト教の学校に通う小学生。子供たちは比較的裕福な家庭から来ている中、スタンリーは事故で両親を亡くし、レストランを経営している叔父のところで生活している。叔父はスタンリーを食い減らしとしてあつかい、店の裏方の仕事をさせ、寝床は調理台の上に布団を敷いただけのひどい環境の中にスタンリーを置いている。でもスタンリーには天性の明るさと子供らしい素直さがあり、クラスの人気者として、また学習の面でも優秀な生徒として先生達からも注目されている。ただ一人の教師がスタンリーを目の敵にしている。この学校はキリストの教えに基づいて、昼のお弁当を誰にでも分け与える。その中で一人だけお弁当を持参しない教師がいる。またスタンリーもお弁当を持参しない、というか持参できない一人で、いつもクラスメイトからお弁当を分けてもらっている。教師はこれが気に食わない。クラスには金持ちの子弟がいて、いつもフルコースのお弁当を持参する。教師はそのお弁当を頂くのが人生最高の楽しみとばかりに、お昼時間になると子供達の前に表れては、そのほとんどを平らげる。ところがある日教師がお昼時間に送れてくると、そのフルコースはすべて食べられていた。教師はスタンリーがお弁当を持参していないことを知っているので、人の食い物を盗み食いする最低な人間としてスタンリーをなじる。子供達は教師には逆らえないので黙っているが、次の日から場所を移動しながら、教師にお弁当を取られないような作戦に出る。でもある日とうとう居場所を発見され、スタンリーは教師からお弁当を持参できない限り学校には来るなと言われる。スタンリーは友達に両親は今デリーに出張しているのでお弁当が作れないとうそをつくが、本当は彼のお弁当を作ってくれる親はいない。スタンリーに同情を寄せているレストランの料理人は、その日にあまった料理をお弁当箱につめ、冷蔵庫に隠してスタンリーが朝、こっそりそれを学校に持っていけるようにする。スタンリーはそれを学校に持っていくと、僕のママが作ったといって自慢げにクラスメイトや先生に振る舞う。スタンリーを追い出した教師は、子供達が校長に真実を告げたことで首になり学校を去っていく。
映画はインドのミッションスクールの日常を淡々と映し出し、同時に、お弁当を通してインド社会の不合理を鮮明に描き出している。日本の幼稚園では、いわゆるキャラ弁とよばれる、まるで絵に描いたような美しくかわいいお弁当が主流になっているが、この映画に出てくるお弁当の中身は、一切れのサンドイッチ、バナナフライ、パン二切れ、ビスケット、豆のカレー、フライドライスと本当に質素でシンプルなものばかり、でもどれも美味しそうで、それを食べる子供達の顔はどれも輝いている。しかし、インドにはスタンリーのようにお弁当を持ってこられない子供達はたくさんいる。スタンリーは学校に通えているのでまだ恵まれている。学校にも行けずお昼も食べられず過酷な労働を強いられる若年労働者の実態は想像を絶するものがあると思う。ここで少し考えたいのは、日本のお弁当。スーパーではお弁当専用のあらゆる冷凍食品があり、それを引き立てるお飾りものも反乱している。ママ達は毎朝子供達のためと一生懸命お弁当作りに励む訳だが、時として、見栄え優先で味がおろそかになってはいないか、作る義務優先で愛情がおろそかになっていないかと考えることもある。愛情とは、美しいお弁当を作ることも一つだが、昨晩の残り物を入れて一言「これ昨日のおかずだけど残すともったいないから最後まで食べようね、」と教える愛情のことである。インドのお弁当映画から教えられた
子供が一生忘れることの無い本当のお弁当とは、考えてみたい。
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