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ILH代表黒部のブログ

西葛西で見たバイリンガルの世界

先週の土曜日、インド人が多く住む西葛西でイベントがあった。ドルガプージャというインド
の女の神様のお祭りで、会場には驚くほど多くのインド人が詰めかけ、まるでインドにいるよ
うだった。私たちはスパイス侍というボリウッドダンスチームで出演した。西葛西のインド人
コミュニティーでは、日本でいう町内会みたいなものがあり、同じ日に幾つかのインドイベン
トが開催されるのだが、どれもこれもパワフルかつエネルギーレベルがすごい。特に子供達を
積極的に舞台に立たせ、上手くても下手でもいいから、人前でパフォーマンスをすることに
インドの親たちは積極的である。中には舞台に上がった途端、歌の歌詞が頭から消えてしまい
棒立ちになっている少年がいて、舞台の横から「なんでもいいから歌うのよ!」と親の方が
一生懸命だったり、ダンスのはずが緊張して棒立ちになった子どもに、ステージの袖で親が踊
り始めたりと、インド人の親心というか、熱い思いが伝わってきた。
このお祭りには、西葛西にあるインド系インターナショナルスクールの子供達が多く参加して
いた。私は子供達とランチをしている親たちと話したくなり、バイリンガル教育について聞い
てみた。各学校では英語を基本言語として学習をしているが、日本語とヒンディー、あるいは
インドにある別の言語、例えば南の言語であるタミル語なども含め、3種類ほどの言語がなん
らかの形で学習されているか、あるいは日常の中で使われているという。実際西葛西の商店街
を歩いていると、インド人の子供達から日本語が聞こえてきたり、次の瞬間、親とはヒンディ
ーらしきインド語で話している。彼らのとってバイリンガルはが特別なものではなく、生活の
中で自然発生するものとしてあるのではないかと思ってしまう。ここではあえてバイリンガル
教育などという言葉は存在しないのかもしれない。
親たちと話した後、三人の若者がランチをしていたので同席させてもらった。ITエンジニアとし
て1年半前に日本に来たという。彼らも完璧ではないが、私とコミュニケーションをとるに困
らない日本語を話していた。もちろん英語はネイティブである。インドが教育の公用語を英語
にしてからインド経済は変わったというが、日本の西葛西という地域で、インド人は3カ国語
を話し、同じ地区に住む日本人は未だ日本語だけしか話せないとしたら、これは大きな問題で
ある。毎年インド人のお祭りに参加しているが、インド人人口は間違いなく増えている。また
子供達の数も半端なく増えている。お祭りにはそれぞれに民族衣装を纏い、食べ物やからアク
セサリー売り、時には占い師まで店を出す。西葛西は紛れもなくインドである。
日本も大きく有名な祭りはたくさんある。しかし何々町内会の規模で行われる祭りは、子供が
不足していて、神輿の山車を引くことができないところが続出している。インドのお祭りに参
加しながら、日本の将来を心配してしまうのだが、バイリンガル教育がもっと日常的になる街
づくりも必要なのかもしれない。

2024 AUGUST

夏休みも後半に入った。お盆休みも終わり、楽しいことはほぼやってしまったが、後
半の二週間どう乗り切ろうかと考えあぐんでいる保護者の方々も多いかと思う。お子
さんを認可園に通わせていても、また幼稚園に通わせていても、親としてこの夏を十
分子供と共有できたかとか、いつもはできないことを一緒にしてやったかなど、ちょ
っとした夏休親心の反省会、みたいなものが湧いてくる。
私の子供達が幼かった頃、夏休みが始まる6月、具体的には5月の後半から気が重くな
るのがいつもだった。アメリカの夏休みは異常に長い。富裕層は4月に街で行われる高級
サマーキャンプ展示会に参加し、ほとんどがその場で予約をする。(現在はネット予
約になっている)実は日本人を対象にカリフォルニアの中学高校がSummer Campを
企画していて、Sleep over campなら二週間の料金がざっと$3000(¥450000)であ
る。ただし料金の中には宿泊先のホームステイ料金、航空券、空港からの送迎、おま
けに留学手配費用($200)は別料金となっている。航空券を含めると$3000プラス
$3000は軽くかかりそうで、トータル料金は$7000、つまり軽く100万はかかる二週
間のサマーキャンプとなる。
アメリカの富裕層はこぞって自分の子供達をヨーロッパの国々に送りたがる。秋にな
ると”My son spent a month in Finland! He really enjoyed a lots in a forest!”とか“Oh my
daughter stayed with French family in Bordeaux, now she speaks French!” 最近では
“My kid stayed in Japan for few weeks with Japanese family and enjoy Japanese food!”
などなどの会話がマンハッタンの私立学校の新学期には当たり前になるが、どの話を
聞いても自慢話であることは間違いない。
さて、今日本にいる我々は、もっと現実的なところで夏休の後半を考えたい。先日あ
る保護者と話をした。お子さんは東京の幼稚園に通っている。この方の悩みは“すっき
りしない“という悩み。何がすっきりしないかというと、この夏休みに園でやってもらえ
ていないことをやろうとしたが、子供達から反発を喰らったとのことだった。男の子
たちなのでワイルドなキャンプを体験させたいと、商業的なキャンプ場ではなく、群
馬の山奥で炭焼きをしていた親戚が、そのままにしている炭焼き小屋に連れて行った
ところ、電気も水道もない、まして火は自分たちでお熾そうというお父さんの計画の
ハードルが高かったのか、夕方になったら泣き出してしまい、早くお家に帰ろうとい
うばかりで取り憑くしまがない。おまけに妻からは、“まだ5歳なのに何もない山奥で水
汲みや、火おこしは無理!と言われてしまったとか。お子さんの通う園では、お泊ま
り会があり、お迎えに行った時にはニコニコ顔で“カレーライス作り楽しかったよ“と
いっていたのだが、これが今ふうのキャンプなのかと考えると複雑な気持ちになった
という。でも迎えに来ていた保護者のほとんどが“すごいね、カレーライス作れたのね。
”と、まるで登山をして一山制覇したようなほどの誉め方を見ていて、転園させよう
かと真剣に思ったという。

アメリカの高校ではサバイバルキャンプというプログラムがある。5人でチームを作り

、学校から渡された地図を頼りにスタートからゴールまでをGPS無しに制覇する。一
番重視されるのがチームワークで、5人が知恵と勇気を出し合ってゴールに辿り着くこ
とで強い達成感と責任感を養うという。私の子供達もキャンプを体験しているが、2時
間ぐらいは楽しくルンルン気分、4時間過ぎると全員が心細く、6時間経つとギブアッ
プしたくなるのが正常な心理だという。もちろんこんなキャンプを幼児達にはできな
いが、人生のあるとき、一度や二度は体験すべきものではないかと思う。
今私たちの周りは“お膳立て“がまかり通っている。よくある“夏休み体験会“や“親子体
験キャンプ“など、コマーシャルベースで行われているイベントは掃いて捨てるほどに
紹介されている。子供達への“ちょっとの苦労や努力“を目的とした内容のものはあま
り多くはないように思う。作品の制作も半分ぐらいは最初からできていて“作品を持ち
帰る“が目的になっていたり、その安全性を重視するあまりに、子供達が今ひとつはっ
ちゃ気になれないようにも思う。
私は幼稚園の頃“ぴょんぴょんごごっこ“という、自分とお友達がウサギの家族になり
、近所の崖に穴を掘って住処を作り、土でおむすびを作り、木の実や雑草をおかずに
したて、時には家からマッチを持ち出して、小枝を燃やしたりとやりたいことを全部
やった記憶がある。確かに昔に比べると自然環境は変わってしまったが、子供達が一
日自由に時間を使って、空想の世界で遊ぶことはできる。残り少ない夏休み、お金をか
けず、人生で楽しい時間の思い出を作れる幼児期、親も一緒になって俗界を離れる時
間を作って、夏休み明けのエネルギーを蓄えるのも悪くはない。

バングラディッシュという国

綱島の自動車工場で働いていたバングラデシュの青年と菊名にあった国際交流会館で出会
った。日本の自動車産業は下請け工事での労働者に支えられていると言うが、労働者は日
本人ばかりではなく、アジアの周辺国から日本に仕事を求めて入国してくる非正規労働者
にも支えられていた。一度現場を見に行ったことがあるが、うなぎの寝所のように長っぽ
そく、狭いカウンターに数人の外国人が小さなボルトの組み立てをしていたのが印象的だ
った。
トニーという当時18歳の青年もそういった労働者の1人だった。数人の仲間と一緒にラン
ゲージ・ハウスに遊びに来た。バングラデシュ名物のビリヤニという炊き込みご飯や、鯉
のような魚をスパイスで漬け込んでフライにした料理など、ワイワイガヤガヤと一週間に
一度は集まっていた。ところがある日、不法在留の手入れがあり、彼らの多くが強制送還
された。トニーが出国する前日、元町にあった移民局に面会に行った。プラスティックの
窓越しにお互い言葉も出なかったが、「これお母さんの子供にプレゼントです」といって
渡されたのがソニーのワークマンだった。こんな高価なものを?!とびっくりしていると
、「僕たちを家に受け入れてくれたお礼です」という。涙が出た。
 それから23年経った。トニーとは時々メールを交わすぐらいだったが、メッセージに
は必ず「いつバングラデシュに来ますか。来たら食べ物と寝るとこを用意します。」と流
暢な日本語メッセージがあった。正直バングラデシュへの旅はハードルが高いと思ってい
た。インドは過去に5回ほど行っていて、毎回都市化が進み、都市での生活は日本とそれ
ほど変わらない。しかしバングラデシュは過去の貧しさからどう発展しているか、治安や
衛生状態はどうかなど、ネット情報だけではわからないことがたくさんあった。そこを後
押しできたのが、「バングラデッシュには日本で働きたい若者がたくさんいる。」という
ことだった。
 バングラデッシュの経済成長はインドと同じ前年比7%増である。人口は1.7億人で世界
第8位、主要産業はテキスタイルが輸出の8割を占めている。実際ダッカの空港で出会った2
人の日本女性はテキスタイル企業からの出張で、バングラデシュに新しい工場をスタート
させるという。今までは中国に依存していたが、人件費の上昇で、今後はマンミャーとバ
ングラデシュに現場の主流を移すと話していた。
 こんなバングラデシュで私はエンジニアを探しはじめている。日本は2030年に80万
人のエンジニアが不足すると予想されている。となると海外からの労働力以外に生き延び
る道はない。しかし言葉の問題や文化、宗教の違いなどから外国人の受け入れを敬遠する
企業も多い。私はこの部分がどれぐらい弊害になるのか、またバングラデシュの若者が描
く日本とは何か、どんなスキルを持ったエンジニアがいるのか、イスラム教というものが
どのくらい生活に浸透しているのかなどを実際に確かめたかった。
 結論から言うと、バングラデッシュ人は親日派であり、勤勉である。これは若者だけで
はなく、主婦でも、子供でも真剣に日本に行きたい、住みたいと言う。日本のどこが好き
かと聞くと「日本人はとても優しい、親切」だという。2番目は「安全で清潔」3番目は「
食べ物が美味しい」という。円安でお給料はアメリカやヨーロッパーに比べると低い。そ
れでも新卒の平均給与が5〜6万円、エンジニアが10〜15万円が相場であれば、「それで
も日本に行きたい」は現実になるかもしれない。バングラデシュが東パキスタンから独立
し、建国する際、真っ先に調印をしたのが日本だった。1970年代日本の自動車会社大手が
こぞって日本に労働者を招き入れた歴史もある。
 バングラデッシュでは毎日大勢の人たちと出会い、その大勢が次の大勢を紹介してくれ
るという毎日だったが、どの顔を見ても温和で微笑んでいる。バングラデシュから新しい
労働力を招き入れることは、エンジニアのスキルだけではなく、自然で明るい人間性を持

ってきてくれるかもしれないと考えると、日本の入国管理局にはくれぐれもよろしくお願
いしますと手を合わせたくなる。私は日本の若い人たちにはバングラデシュの旅にチャレ
ンジしてもらいたいと思う。物価は安くチャイが20円、ポテトチップス一袋30円、ナンと
カレーのセット150円、女性のドレスは100円から、サンダルは100円とアメリカの10分の
いちの値段である。タクシー代わりに使う力車は行く場所にも夜が20分乗って400円ぐら
いである。日本人にはビザの取得も簡単で、空港にある入国管理デスクで簡単な書類に記
入、英語での質問に答えれば通過できる。(ちなみにインドは何ページもあるウエッブペ
ージをダウンロードし、質問に答え、写真やパスポートのコピーを貼り付け、最低でも3
時間はかかるほどに複雑である)
 バングラデシュが貧困から脱出するのにそう時間はかからない。貧富の差を解決するに
は時間がかかるかもしれないが、国全体の経済力は日本を追い抜くこともできる勢いであ
る。23年前の出会いが作ってくれた今回の旅、また新しいページが開けそうでワクワク
している。

アメリカの若者難民

今ニューヨークのような大都市では、他の中規模都市や物価の安い海外へ脱出する若者が増え
ている。原因はほぼ全ての物価の上昇である。日本は低賃金で騒いでいるが、それでもまだコ
ンビニでの買い物はできる。ところがニューヨークでは一番安いサンドイッチが8ドルぐらい
する。日本円で¥1280円である。コーヒーも地元の人たちが利用するデリ(アメリカのコ
ンビニみたいな店)で¥800もする。
日本のドトールコーヒーのSサイズが¥250円だとすると約3倍の値段である。
例えば朝食にニューヨーク名物のベーグルにクリームチーズを挟んでもらい、カフェラテを注
文すると普通でも20ドル、なんと¥3200の朝食になってしまう。ランチには野菜サラダ
ボールやチキンサラダといった健康的なメニューを選ぶ人が多い。しかしどんなに安くても
15ドルは下らないから¥2400のランチとなる。これがレストランに入ってしまうとチッ
プを入れてパスタなら最低でも30ドルは取られる。おひとり様¥4800のランチ!これが
素晴らしく美味しいのならまだしも、味は10ドルぐらいと思うことが多い。
 昨年ロサンゼルスに行ったとき、大谷翔平が出るというのでエンジェルスの試合を見に行っ
た。野球観戦につきものはビールであるが、一杯¥1200、ホットドックが¥3000ぐら
いだったと記憶している。
 高いのは食べ物ばかりではなくホテルや民宿もど高い。ニューヨーク州はホテル協会の反
発でAirB&Bという一般の人が自分の家やアポートを旅行者に貸し出すシステムが廃止となった
。31日以上の宿泊であれば許可されるのだが、7泊しただけで2000ドルは下らない。つまり   ¥320000の宿泊費は英語で言うSuper Crazy!!である。
これには清掃代、タックスなどが付いているが、未だ一泊¥10000で泊まれる、清潔でサ
ービスの良い日本のホテルがどれほど外国人に喜ばれているかは言うまでもない。
 アメリカの金利政策は経済を後押ししているが、この動きに取り残されている人たちは多い
。例えば学校の教師も生活は苦しい。アーティストやダンサー、ファーストフッドで働くチッ
プ収入のない店員、小売店で働くパートタイムの人たちは健康保険を持たずに働いているケー
スが多い。アパートも一部屋を2人でシェアーしたり、エレベーターの無いタウンハウスの最
上階に住んでいる高齢者もいる。ニューヨークの生活は活気があって楽しい反面、お金がない
とどうにもならないという現実が、普通の若者が住めない街になってしまった。ホームレスさ
えキャッシュレスの時代、冬の厳しいニューヨークでは飢え死にするだけなので、カリフォル
ニアに難民の如く移動しているという。
 日本も近年格差社会が目に見える形で始まっている。それでもおにぎりが¥200で買え、
コーヒーもコンビニなら¥110で美味しい。国民皆保険はあるし、年金は少額になっても制
度としては健在している。アメリカでは所得層によって行けるデパートも限られるが、日本は
行きたいデパートに行ける。以前にも書いたが、日本は大きなことをやらかそうとか、欧米と
同じように経済発展をしようとかを選択せず、身の丈にあった国民の幸せを追求するために、
日本独自の発展方法があるはずだという選択をしてほしい。ニューヨークの街がこれからどう
なるかはわからないが、若者が街からいなくなる、そしてお金持ちだけが街に残る、このアン

バランスが引き起こす弊害は想像以上に大きいと感じているのはニューヨークの街を心から愛
する地元住民に他ならない。

13年目の入園式

 ランゲージ・ハウス幼稚部は今年で13年目を迎える。今日は13期生の入園式だった。12年前の今頃、2人の園児の入園式を行なった。保育士はミチヨ先生、外国人講師はキース・キングだった。園児は男女一名づつ、2人とも英語リトミックの北軽井沢(横浜)クラスからの子供達だ。当時私は出張形式での英語リトミッククラスを毎日のように行なっていた。一週間に15〜16クラスを飛び回っていたが、ママたちは英語よりも体を動かして親子でダンスやクラフトで1時間を楽しむことに意識があったように思う。私は当時からバイリンガル教育を啓蒙したいと活動していたのだが、大体バイリンガルがなんなのかもわからない人たちがほとんどだった。12年前の施設は、黑部家の居間がメイン教室、総務の部屋は1階にあった日本間で畳敷、派遣事業でスケジュールを担当しているスタッフが総務を兼ねていた。2階はまだ主人と私が暮らしていて、キッチンは今のコーナールームだった。それでも幼稚園らしさを出そうと、ユニフォームコードを作り、靴と靴下は黒、ハイソックスは不可、制服はきちんと園に来てからTシャツに着替えるというルールを作った。年度の途中から女の子がもう一名入園した。ところが家が日吉でスクールバスがあると聞いたから入園させたといってきた。確かにスクールバスを出すとは体験会で話していた。まさか日吉!しかし約束は約束である。とにかくバスを購入しなければならない。ところが園バスというのは思いの外高額で、かつ中古でも出物がない。やっと見つけたのが京都の園から中古で降りてきた日産のバンだった。翌年タウンページという機関誌がランゲージ・ハウスを取り上げてくれたおかげで、数人の園児が入園し、良し!と思っていたら全員がバス通園を希望し、南は本牧、北は日吉というルートになってしまった。これも約束したので送迎しないわけにはいかない。朝7:45にはバスに乗り込み、まずは本牧へ。みなとみらいを回って横浜駅周辺、一度ランゲージで南まわりの園児を下ろして、再び日吉からセンター北、南へと周り、園に北ルートの子供達が到着するのは10:00近くになっていた。私も添乗していたが、日吉ルートは綱島街道の渋滞が毎日で、心の中では「なんでバスの送迎がありますって言っちゃったんだろう」と後悔の念もなきにしにあらずであった。結局4年間日吉への送迎は続いた。今はランゲージのグループ全園で用務員のお仕事をしている海老沢さんが長年園バスの運転手さんをやってくれた。心から感謝している。

バスの送迎で本牧から日吉までを走った横浜の街も変化している。バイリンガル教育はやっと社会に受け入れられた感はあるのだが、現実にどれくらいの子供達がグローバルスタンダードと言われる教育を受けられるのだろうと考えるとランゲージ・ハウスの努力は続けなければならないと真摯に受け止めている。

桜の花を見て思う。世の中にはか変わらないもの、変わらなくてもいいものもたくさんある。桜もそのひとつかもしれない。しかし教育は世界の変化とともに柔軟に、かつ慎重な変化が必要である。日本の子供達が世界の変化に上手く適用でき、かつ幸せな生活ができる土台を作ってあげるのは大人の仕事である。入園式13年目にあたって私の思いは強い。

華やげ、日本!

 あっという間に1月も後半になってしまった。VOICEに書きたいことが頭の中だけに溜まってしまい消化不良どころか便秘状態である。「今日こそは」という気合いは日常の茶番劇に負けて空振りとなり「明日こそ」と自分を甘やかしてしまう。これが連日続くと流石に自己嫌悪に陥るのだが、これも輪をかけた悪いくせで寝てしまうとこの嫌悪感を忘れてしまう。そんな時、明日は誕生日だったことを思い出し、またひとつ歳をとる前に書きたいことを書いておこうと思う。
12月にオランダを訪問した。小学校の英語クラスを見学することと、日本とはワーホリビザで若者交流があるオランダから英語を話せる保育士を呼び寄せるのが目的だ。冬のオランダは相変わらず寒く、朝は8時半になっても太陽が昇らない。気温も氷点下で草木も凍るとはこのことである。ウクライナ戦争の影響で、ガス代が高騰し、お世話になった友人の家でも夜10時から7時までは暖房を切ってしまうので、ベットに入る時はありったけのセーターを着込んで寝た。こんなオランダの現状を話すとさぞかし街はどんよりして暗く、人々の表情も悲しげなのではと思いきや、全くの逆であった、というより、日本より表情に暖かさを感じるほどであった。
オランダはE U圏でも経済が好調な国である。国民の幸福度も高く安定している。そんなポジティブな現状は街を歩いていても感じることができる。アムステルダムは大人の街として、パリとは違った落ち着きがある。ファッションセンスも良く、昔からブラックやグレーの無彩色を上手に着こなすビジネスの街でもある。ところが今回、街を歩く人々の中に、目が覚めるような赤やブライトグリーン、クリアーブルーといった華やかな色を身につけている人たちが現れた。オランダの冬は雨が多く、重そうで暗い雲にどんより覆われているのに街を行く人の表情は明るく元気である。逆に朝からお日様が燦々と降り注ぎ、雲ひとつない日本、特に関東地方の冬はオランダの人たちから見ると羨ましい限りなのだが、日本人の顔が寒々しさを感じるのはどうしてだろうか。オランダ人は食べ物より住居にお金を使うと言われるが、日本と一番違う点は、家々にカーテンがない。居間の様子などは面白いほどよく見ることができる。他人から見られることを意識してか、インテリアにはどの家も工夫を凝らしている。私が訪れたのはクリスマスシーズン真っ最中、クリスマスツリーがどの家にも飾ってあり、絵本さながらの暖炉があって、その横にツリーが飾ってある家を見ていると、通行人までもが幸せな気分にある。少し話は逸れるが、私はカーテンが嫌いだ。布自体は好きなのだが、朝から晩までカーテンをしっぱなしという日本の文化?がどうもしっくりこない。確かに日本には他人に家の中を見られたくないという風習のようなものがある。昔も障子などを使って外から家の中が見てないような工夫はしていたが、昔の日本の建物には縁側というものがあって、時には障子を開け放して、太陽の光を入れ、畳を湿気から防ぐという生活の知恵があった。私が小さい頃、家はボロ屋であったが、縁側が付いていて、よく近所のおばちゃんたちがお茶を飲んでは楽しそうにおしゃべりをしていた。この人たちは今でいるアポなしに突然のように現れる。その家に人がいるかどうかの目安になるのが、明け放たれた縁側だった。今の時代では昼間家にいるのはごく限られた人たちで、家の中にいてもカーテンが一日中閉まっているので無人かどう
かもわからない。ここで話をオランダに戻すと、オランダの子供達はいまだにお昼は家に帰って食べ、再び学校に戻るスタイルが残っている。カーテンがないので、食事の様子や、母親にどうも叱られているかな?と思われる様子、時には赤ちゃんに授乳している様子などが見え、自分もこの街の住人になったような微笑ましい気分になる。もう一つオランダにはお一人様レストランがない。というか壁に向き合って食事をするところがない。これはオランダに限ったことではなく、日本に来る外国人が決まって聞いてくる質問の一つ、「なんで、日本人は壁を向いて無表情で食事をしているのか?」「おひとり様って何?」「隣の席が空いているのに座りたくない?」などなど。
コロナの後、これが文化風習になったと答えたら、驚きの表情で「Really?」と言われた。もちろんオランダでもバーカウンターなどに1人で座り、飲み食いしている場面もあるが、私の経験から言うと、座ってから席を立つまでプライバシーを完全に確保できることはなく、隣に座った人から話しかけられたり、バーテンダーが話しかけてきたり、逆に言うとバーのカウンターは社交を生み出す役割があると言ってもいい。残念ながら日本のお一人様カウンターでの社交は期待できない。
 なんだか日本を否定しているような話になってしまったが、1月、新横浜の成人式で見た若者たちは、どの国の若者より瞬間華やいでいた。今日は特別な日だから、特別な着物を着る。それによっていつもとは違うエネルギーが湧いてくる。顔にも頬絵にが溢れている。自信に満ちている。本来着物姿ではお淑やかに?歩くところだが、堂々と闊歩し、我が物顔で風を切って歩いている若者たちがめちゃくちゃ眩しかった。この華やぎが日常にあれば日本はもっと前に進める。もっと国民は幸せになれると思うのは私だけだろうか。
日本よ、華やげ!が2024年のスタートに贈る私のメッセージだ。

品川駅の立ち食い寿司

 インターネットで発信される世界中の情報の25%が英語で発信されているという現実がある。つまり世界の4分の1の情報は英語がわからないとキャッチできないか、遅れて届くことになる。例えば、ある惑星から巨大隕石が落ちてくるという情報が英語サイトにはあっても、日本語サイトには時間差で届くとして、その時はすでに時遅しとなることもあるかもしれない。いやでも世界の経済が英語を共通語として動いている現実を無視することはできない。。。。。というようなことを考えながら、私は品川駅構内にある立ち食い寿司屋に入った。その夜は東京で大きなお通夜があった。近頃では珍しくテントを張った大きな通夜で、コロナ禍ではあり得なかったお清めの品々が並んでいた。しかしその夜は蒸し暑く、いくら酢で締めた寿司とはいえ、これを通夜の場所で食するにはリスクが高いと思い食べるのをやめた。数年前に品川のスポーツセンターで教えていた頃に立ち止まった寿司屋によることに決めた。

さて、立ち食い寿司と英語の関係である。私はカウンターに留まってお寿司を注文する人たちの立ち振る舞いや、寿司職人たちとの会話を聞くのが好きで、黙って聞いてはいるものの、心の中ではどちらかの会話を応援している。品川駅には外国人が多い。周辺には大きな企業が多く、京急羽田が通じているので、空港からも近い。そのまま新幹線に乗り換えることもできる。したがって立ち食い寿司には外国人も多い。それぞれに寿司アプリを使ったり、カウンター越しに新鮮なネタを指さして注文したり、日本語を勉強しているらしい外国人は、壁にかけられたメニューを読み解きながら注文している。その姿はみんなテキパキしていて迷わない。テキパキとしているのは外国人だけではない。日本人の寿司職人も小気味よい動きと、英語での対応に品川駅のエネルギーを感じる。私の前で握ってくれた職人さんは、ほぼ全てのネタを英語で言えていた。ネタの中にはスペイン語がそのまま英語名になったようなものもあるが、ネタの出身地さえ知っていてなかなかの博学である。もう一つ私が興味深く感じるのは、個人事業主風日本人のオーダーの仕方である。このタイプの人たちには注文方程式みたいなものがある。まずカウンターにつく。目の前に笹の葉のお皿が出るまでにざっとガラスケースに目を通す。次のグラスビールを注文する。なぜかジョッキよりグラスが多い。一口飲み干すと壁のお品書きに目を通し、サクサクと注文を始める。自分の好きなもの3種類を値のはる順から注文する。高いネタを最後にしないのは、このタイプの共通した注文の仕方である。次に旬のネタ、そして締めにはシンプルに干瓢巻きなどを注文する。この間約20分、ダラダラとカウンターに留まらない。これは私の独断と偏見だが、これらの人たちを見ていると、堂々としていて、経営力を感じるのである。ビジネスに例えるなら、ガラスケースのネタで本日のマーケットを確認し、注文がきで季節の動きを探り、即決即断で食べたいネタを注文する。お酒は楽しむというより、お寿司を食べるためのメンタルを仕事からプライベートに切り替える。もう一つ加えるなら、外国人が突然話しかけてきたり、ネタの質問をされたりしても、この手の人たちは英語で堂々と答えている。英語が話せない場合は、日本語で対応もしている。

日本全国津々浦々立ち食い寿司はたくさんあるが、品川駅構内のそれは良い意味で社会の姿を表している。もちろん立ち食い寿司を利用する目的はさまざまであるが、一杯のビールで1日を振り返り、カウンター越しの会話を聞き流しながら、サクッと自分の欲求の満たすままに寿司を食する。外国人もそんな日本人を笑顔で眺めている。これはまさに日本の誇るべく文化そのものである同時に、こんな立ち食い寿司に日本人と外国人がそれぞれの領域を犯さずに美味しいものを食べ集うことで、無理に会話をしなくとも、笑顔やアイコンタクトで話ができる。英会話を学習するなら、時としてこんな場所に身を置いて、ニュアンスで英語を聞き取っていくことも楽しいと思う。少なくともネタの名前を英語で覚えるだけでも効果がある。ちなみにFatty tuna(大トロ)Pickled tuna(漬けまぐろ)Greater amberjack(カンパチ)Amberjack(ブリ)Conger eel(穴子)Mantis shrimp(しゃこ)などなど全てのネタは英語で訳されているが、最近多くの外国人は日本語読みで注文している。これも日本文化の誇るべき部分であるが、逆に回転寿司はタブレットの普及が進みすぎて、寿司文化の一部が崩壊されているような感じも受けるこの頃である。

小学校を作ろう!

私は東京は板橋区の出身である。小学校は実家から歩いて3分のところにある志村第四小学校に通っていた。この学校はこれと言って特別なものはなかったが、校歌をさとうハチローという有名は作詞家が作ってくれたおかげで、普通の学校がそこで働く職員、そこで学ぶ児童の士気を高めていたような気がする。ハチローさんの詩は同じフレーズがなん度も重なるのだが、不思議とフレーズを歌うたびに世界がどんどん広くなっていく気持ちになった。この校歌のせいか、就任してくる先生たちにはパッションと小学生を教えるという気概がみなぎっていた。小学校2年生のとき、新潟から赴任してきた新米の先生が担任になった。朝礼で紹介された時、先生は顔が真っ赤になっていた。おまけに新潟方言があって「委員」が「ええん」に聞こえたが、子供心に面白い言葉があるんだと思った。それからしばらくして、新しい音楽の先生がやってきた。東京オリンピックで鼓笛隊を指導していたとかで、突然学校に鼓笛隊道具一式が揃った。先生は指揮者のカラヤンを尊敬しいて、ご自宅のグランドピアノの前にはカラヤンの大きなポスターが貼られていた。ちなみにこのグランドピアノが幼稚部にあるそれである。先生からはアップライトのピアノも寄付していただき、これは現在中島認可園で使用している。

 中学になって英語の授業が始まると、実に退屈で難しい文法の授業が始まった。女性の先生でいつも科学者のような白衣を着ていて、節だの句だのと言っていたが、これが今までの英語人生で役になったことは残念ながら一度もない。ただ教える熱意は物凄く、英語がいかに大切か、英語を知らないで外国から来たものを買っていると必ず損をするようなことをいつも言っていた。当時Made in USAは一世を風靡していた。ヤンキーファッションやアイビールック、マクドナルドにケンタッキーといったアメリカ文化が嵐のように押し寄せ、アメリカから来るものが全ての憧れのようになっていた。音楽も然りで、歌詞がわからなくてもメロディーや歌手そのものに憧れて涙を流す日本人がたくさんいた。英語塾もキノコのように出現し、誰もがそこに行けば英語が話せるようになると信じていた。そのころの英語文化は、それを学ぶというより憧れるという要素がめちゃめちゃ強かった時代である。一部の優等生たちは、憧れからいち早く脱出して、現実に英語をしっかり学ぶことで自分の人生を設計したいという「留学生」が今よりもっと多かった時代である。大学時代私の友人も何人か留学切符を手にしていた。羨ましいと思ったが、彼女たちが凄まじいまでに勉強をする姿を見ていて、私には「無理」と思った。その反発からか英語はビートルズの歌詞が理解できるぐらいでいいと思っていた。

そんな私が今教育事業に携わり、真剣に子供達の英語教育を改革したいと考えたのは、他でもない、世界を見るチャンスに恵まれたからだと思っている。結婚してNYに住み、そこで子育てをし、仕事をした全ての場面に知らない世界や文化があり、人々がいた。世界とはこんなに楽しくダイナミックなんだと感じた。英語が話せればもっと人生は楽しめると単純に考えた。日本に戻り、子供達が日本の小学校に入った時に英語が教えられていない現状に驚き、心配した。アジアの国々では国を挙げて英語教育にと取り組みはじまていた。このままでは日本がダメになると真剣に思った。

 さて、私は今どんな小学校を作りたいかと聞かれたら、日本の子供達や日本に住む外国人の子供達が、英語を共通語としてお互いの異文化を理解し、母国語を尊びかつ使えることで、より良い人生を見つけたり、将来世界に先駆けての技術を開発したり、それを世界に広め、日本のみならず世界に向けて自分をアピールできるような、人生の可能性が倍になるような教育を環境を作りたいと思っている。同時にその学校で教える教師には、自分の足で世界をみてきた経験があり、良くも悪くも多くの人生経験を持っている人物が必要だと思っている。「教える」ということへのパッションは学校では習えない。教えることへのパッションと努力は背中合わせだと考える。世界をよく知っていて、実際に世界を見てきた経験値と、子供達での愛情がバランスよくその人物に配合されていて、それが教育へのパッションとなり、社会の変化を鋭くキャッチしながら、子供達の将来につながる教育のできる、かつ人間味の濃い先生たちが集まって作る学校である。

New Yorkで子供達の学校を選ぶために多くの学校を訪問した。そこで感じたのは、いわゆる評判の良い学校、有名校として認知度が高い学校ほど、パッションのある教師が揃っていた。ブロンクス地区にある学校を訪問した時、休み時間だと言うのに多くの教師と生徒たちは廊下に座り込み、ディスカッションをしていた。先生は「これはこうだよ」とは言わず、「君の答えをまず説明して」という。答えに対して「ここと、ここは正しいと考えるが、この部分はもう一度か考察が必要だね」というように、自分の出した回答に対しての責任を持たせ、それが間違っていたら、間違いに責任を持たせ、正しい回答を導くという対話で生徒と向き合っているのを感じる。

 今日本の先生たちは大変そうである。仕事量が多いというのも事実だが、教育者として何を優先させるかといったプリンシパルを見出せないでいるようにも見える。これをしてはいけない、このような発言をしてはいけない、子供をしかってはいけないなど、教師を取り巻く環境はあらゆるところでボーダーラインがあるようにも見える。それであれば、私が作る小学校は、教師が伸び伸びとパッションを持って大胆にかつおおらかに子供達と向き合える

環境と、アカデミックには、子供達がそれなりに努力しないと世界のスタンダードには追いつかないという努力が自然にできるような環境を作りたい。これを夢物語で終わらせないためにも、ランゲージ・ハウスに関わる全ての方々のご協力を期待したい。

日本人よ!

新年明けましておめでとうございます。昨年は良きも悪しきもチャレンジの多
い年でした。明けて6日目、なんとなく良く変わっていくような、そんな感じ
がするのは昨晩ぐっすりと寝たせいでしょうか。昨年は安眠を妨げる案件が多
々あり、これが無意識のうちに健康を害していると気がつきました。自分が蒔
いた種とはいえ、ビジネスがらみの案件で健康にも害が及ぶとなればとんでも
ないことで、全ては心身ともに健全であることから始まるなら、ビジネスも然
りであると自分に言い聞かせた新年のスタートです。
コロナ禍で眠りの質が低下していると感じている方はたくさんいると思います
。特に子育てと仕事の間で、物理的に睡眠時間が不足している方は、その解決
方法を実践できないまま一年経ってしまったという方も多いと思います。また
これからの受験シーズンでは、子供の塾への送迎、お弁当作り、夜間勉強をし
ている子供への気遣いなど、安眠などとてもできないという方もいるかと思い
ます。
私の場合は、夜中に何かが原因で目覚めます。例えば犬の夜中に尻尾をばちば
ちと壁にぶつける音とか、主人がギンギンに冷えたみかんを食べに夜中に起き
るとか(これはほぼ毎日の習慣で、季節によって果物の種類も変わります。)
明け方の4時ごろに犬を散歩するとんでもない早起きの隣人が歩く音とかです
。もちろん毎日ではないのですが、一度目が覚めると寝付けない、これが起こ
ってしまうと、それはもう100種類ぐらいのことが頭に浮かんできては「ど
しよう」となります。時には昨日バナナを買い忘れたけど今日の朝はどうしよ
うというような、まるでバナナに呪われたような気持ちになることすらありま
す。こんな眠れる夜を過ごして翌日、鏡を見ると重症なパンダ目になっていま
す。幸いなことにマスクがあるので、人と会うときは、さも何もなかったよう
な顔をしていればいいのですが、頭のどこかで「今日は早く寝なければなりま
せん。」と言っている自分がいるのです。このような問題を解決する一番の方
法は、日々の生活を見直し、あまり関わらない方がいいことや、ストレスにつ
ながることなどを切り捨てていくことだと思うのですが、それが中々できない
のが現実です。
私はヨガを学生時代、OL時代と長年続け、ニューヨークで暮らしていた時代も

インド人の先生に習っていました。当時のヨガは人間のフィジカルな問題を解決する
ことを目的としたヨガクラスが多く、今流行りのマインドフルネスやメンタル
ヘルスなどという分野はかなり特殊だったかと思います。しかし社会の変化と
ともに人々の問題はフィジカルもメンタルも含めてかなり複雑になってきたよ
うにも思えます。質の良い睡眠を求めるためのヨガクラスなどもたくさんあり
メディテーションをサポートするクラスもあります。これらのクラスは、自分
と同じような悩みを抱えている人たちが集まって一緒にヨガをすることで、一
つの安心感を得ることができます。「あら、私だけじゃなかったんだ」と言っ
た感覚です。また講師もファッショナブルでスマートな先生が多いせいか、「

私も先生のようになりたい、ヨガをすればなれるかもしれない」と言った感覚
を得ることで別の安心感に繋がります。
ただ、ヨガは呼吸法が全てです。ポーズはできても呼吸法が連動しないと効果
はありません。逆に多少ポーズはギクシャクしていても呼吸法が安定していれ
ばヨガの効果は得られます。
さて、質の良い睡眠を皆さんにもとって頂きたいと思います。一番簡単で、い
つでもどこでもできる呼吸法を紹介します。右手の薬指と親指で両方の鼻をつ
まみます。次に親指を離し右の鼻で1、2、3と数えながら空気を吸い込みま
す。
ここは腹式呼吸ではなく、鼻から胸にかけて空気を吸い込みます。4で鼻を親
指で閉じ、同時に薬指で抑えていた鼻から1、2、3、4、5、6、7と数え
て息を吐き出します。ぐっと吐き出したら一度指を元に戻し3秒おきます。そ
の後また同じような動作を10回繰り返します。この呼吸法の効果は自律神経
を整えることにあります。自律神経と睡眠は密接な関係があります。まずは1
ヶ月間試してみてください。7秒の吐き出しが11秒にできれば合格です。
今年は皆さんに質の良い睡眠と清々しい朝が毎日やってきますように!
心身ともに健全な親には、健全な子供達が育つと確信します。2023年を
health and beautyで過ごすことで幸運が舞い込むかもしれません。

Thanksgiving 2022

日本では馴染みのないThanksgivingは、アメリカやカナダでなどで祝う祝日
の一つである。アメリカでは11月の第4木曜日に行われる。日本では感謝祭
ともいう。歴史的にはイギリスからマサチューセッツ州のプリマスに移住した
ピリグリムの(清教徒)が1620年にプリマスに到着したが、厳しい冬の中
食料不足で多くの死者を出したが、翌年ネイティブアメリカンからトウモロコシ
の種を分けてもらい、その栽培をはじめることで生き延びることができたとい
う背景がある。
さて、私のアメリカ生活で体験したThanksgivingの印象は「食べる」というこ
とに尽きる。当時主人が勤務していた国連ではThanksgivingには近隣の町から
Thanksgivingに国連職員を招いてくれるボランティアファミリーを募集する。
私が最初に招待されたのはコネティカット州にある大きな赤い屋根の牧畜倉庫
と、だだっ広い庭とプールを持つアメリカ人の家だった。ホステスを務めるル
ースというおばちゃんは当時80歳で大きな屋敷に一人暮らしだった。ただど
うもお片づけが苦手なようで、バスルーム(お風呂とトイレが同居している場
所)で見た山のような化粧品の散乱状態はハリウッド映画のようでアメリカに
いる気持ち100%にしてくれた。少なくとも20本の口紅が散乱していた。
このおばあちゃんはThanksgivingの準備を2週間前から始める。まずメインデ
ィシュのTurkeyは4日前から解凍を始める。大きさは色々であるが10キロぐ
らいの大物が一般的だ。そのお腹の中に詰めるスタッフィングは大粒のパン粉
のようなものを湿らせて香辛料やハーブを入れてTurkeyの臭みを和らげる効果
がある。日本であまり馴染みがないのは、この独特の臭みが日本人には受け入
れられないのではないかと私は勝手に思っている。実は私自身あまりTurkeyが
好きではない。調理前の丸ごとの姿を見るにつけ、この鳥が生前に持っていた
立派な羽根とかを思い出すと食欲が失せる。それと顔があまり可愛くない鳥で
、ようは美味しそうな容貌ではない。Turkeyの付け合せにはマッシュポテトと
クランベリーソースがつきものである。このクランベリーソースはTurkeyの淡
白な味を引き立てるような役割だというが、お肉に甘いソースはどうも合わな
いような気がする。これをアメリカ人に言ったら、「では一体日本人が魚を煮
る時にどっさりと入れる砂糖や味醂はどうなっているのだ?」と言われてしま
いそうだが。
ルースおばあちゃんのお得意はコーンブレッドとポーリッシュソセージだ。私
はこの二つが大好きだった。なんとなく開拓時代の雰囲気がいい。おばあちゃ
んはすべてのメニューを自分1人で作っていた。制作にかける4日間を楽しん
でいて、日本から来た、見知らぬ家族でさえ、おばあちゃんの家族の一員にな
ったような気分になるホステス力の強さは見習うところが多かった。
私はこのおばあちゃんとは亡くなるまでのお付き合いだった。彼女の4人の息
子たちはスーパーアメリカンワイルドボーイズと言えるような破天荒なおじさ
んたちで、それぞれにビジネスを成功させていた。生前おばあちゃんから、ボ
ーイズが小さい頃、ポリスが家にきては息子たちのしでかした犯罪一歩手前
のいたずらに何度も頭を下げたというが、内心は「息子よ、でかした!」とい
う誇らしい気持ちになったというから太っ腹なおばあちゃんだった。こんな母
親が成功者を育てるのかもしれない。
さて、今年もランゲージではThanksgiving partyを開催した。コロナの第八派の
心配もあり小規模になったが、小規模になったのはパーティーだけではなかっ
た。主役のTurkeyも輸入原価の高騰で一羽がなんと一万円以上という高額。こ
れはネット価格で、店頭では一万五千円という高値がついている。 これもウ
クライナとロシアの戦いの影響か。結局外国人スタッフが五千円のものを見つ
けたというので買って来てもらったら、近所のストアーで売っている鳥の丸焼
きぐらいの小ぶり、どこから見てもTurkeyには見えなかったが時にはこんな
Thanksgivingも一つの思い出になるのだろうということに考え直した。大切な
のは家族ではないものたちが集まり、家族のような絆を作り、また明日から頑
張って仕事をしていくことなのだと。A Happy Thanksgiving everyone!

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