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ILH代表黒部のブログ

卒園児に向けて

あっという間に3月になり、卒園式が行われる3月19日まであと2週間と少し、土日を入れなければの残りは12日である。早い、早すぎると毎年3月になると卒園児たちが愛おしくなる。それにしても子供達の成長は早い。これが一番よくわかるのは子供達が階段を上り下りするときに見える素足の大きさだ。年少から年中の半ばぐらいまでは小さな可愛いベイビーフットが、年中の夏休みを過ぎるあたりから俄然大きくなる。足だけ見ていると幼児ではなく児童といったほうがいい。それほどに足は子供の成長をはっきりと垣間見ることができる。
さて、卒園児に送るメッセージを書きたい。小学校に上がっても忘れて欲しくないことがいくつかある。それはランゲージで培った人間性に関わることがほとんどである。
その1)常に自分に自信を持って闊達に新しい友達や先生と接すること。
小学校に入ると新しい環境のせいか、突然のようにしぼんでしまう子供がいる。
幼稚園ではあんなに意気揚々としていたのに、と親は心配するのだが、子供達とっても新しい環境で自信満々に振る舞うのは大変なことである。4月5月は子供を叱らずにできる限り褒めてあげて欲しい。「すごいじゃん!」と声をかけて欲しい。間違っても「どうしたの?元気ないね、しっかりしなさいよ」とは言わないこと。子供にもプライドがある。
その2)わからないことは解らないということ。解りません、教えてください。
を習慣とすること。
子供に自信がないと、質問をすることが怖くなる。こんな質問をして笑われるんじゃないか、バカだと思われるんじゃないかと悩む子供は多い。しかしこの時期に人に聞いて解らないことを解決するという習慣は大人になってからもずっと役に立つ。反対にこの時期に解らないのにわかったフリをする癖がつくと人生でなんども躓いてしまう。例えば夕食の時、ママは「今日1日何か解らないことがあったら教えてあげる。」というように切り出して守るのも一つである。
その3)困っている人、いじめられている人、弱い人を助ける気持ちを持ち
行動する。
小学校に入るともっと身近にいじめの現場に遭遇するかもしれない。不運にも自分がいじめられてしまうかもしれない。その時は黙っていてはいけないことを教えよう。昔の子供達は言いつけ魔というのがいて、結構活躍してくれた。誰かがいじめられていると、言いつけ魔が先生の所に飛んでいき報告する。それも先生が動いてくれるまでしつこく言い続けてくれる。今はどちらかというと触らぬ神に祟りなしという子供が多いと聞く。また1人で行動する勇気を持たない子が多いので、自分が正しいと思った行動は勇気を持って行うことを教えたい。
その4)英語が理解できればゲームはもっと楽しいし、もっとすごいことができることを教えて欲しい。
英語が話せたり、読めたり、書けたりすることのメリットを子供目線で理解させてあげることが大切である。子供達が今大切にしていることや、面白いことが英語によってより面白くワクワクできることを具体的に教えてあげることで英語への興味は具体的になる。幼稚園や保育園で5年、あるいは4年近く学習した英語には子供達の努力が詰まっている。これを小学校に入ってから継続ができないと数ヶ月で0に戻る。この恐ろしい現実はたくさんの卒園児が体験していると思う。少なくとも子供達の努力を無駄にしないためにも、英語継続の環境を与えるのは親の役目だと考える。
その5)子供の能力があらゆる意味で開発されるのは「遊び」である。
子供達は習い事が増えるたびに笑顔が消えていくという現実を親は真摯に受け止めなければならない。何のための習い事なのか、習い事の目的は何なのかを
家族で話し合って欲しい。情操教育、感性強化、体力増強、運動能力強化と目的はあるかもしれないが、このうちのいくつかは「遊び」の中で解決できることはある。それも子供にとってノーストレスである。子供にとって「遊び」は心身ともに特効薬になることは間違いない。
子供達の未来は無限である。ところが成長するに従って無限は有限になり、時として無だけになる。少なくとも将来、子供達が自分にあった仕事を探すまでは
可能性を無限大にする環境を提供するのは親の役目だと思う。そのファーストステップとしての小学校、この先の6年間を見据えた子育てプランを立ててみてはどうだろうか。

2022年ランゲージ・ハウスの教育指針

2022年を迎えワクワクしている。オミクロンやその他コロナに関わる現状は残念ながら回復傾向にはないが、それはそれとしてランゲージ・ハウスが2022年度に目指す教育について話したい。

ランゲージ・ハウス幼稚部

幼稚部は開園11年目を迎えるが、開園当時と今では幼児英語に関する社会の関心が大きく変わった。10年前は外国人の先生と生活を共にすることに関心があったが、今はいかに英語教育が実践され、成果を出しているかが問われる時代になった。また教育の無償化に伴い、学校法人、認可保育園など無料で保育してくれる施設にも本格的な英語教育が浸透し始めている。最近では英語塾がインターナショナル保育園を始めたり、外国人の子育て支援員も珍しくなくなった。そんな現状の中でランゲージ・ハウスが継続的に子供達のためになる教育、学習に取り組むにはいままで以上にしっかりとした年間計画が必要になる。2022年の保育方針と英語教育の具体的ありかたを説明する。

保育方針 人の話を聞き、自分とは違う意見を理解し、そこから自分の意見を引き出すことのできる人間としての幅を
     幼い頃から育む。これを具体化するためには、保育士、外国人講師、また子供達に関わるせうべての大人が
     同じように子供達の話を聞き、理解しようとつとめ、大人として適切な意見を子供達と共有できる技量を持つ
     ことを毎日の保育の中で実行する。

     地球の尊さを教え、自然の威力を理解し、人間以外の全ての生き物と自然を尊ぶことを教える。

     お父さん、お母さん、兄弟を大切にし、お友達を大切にすること、誰か困っている人がいたら助けることを
     常に意識づける習慣を育む。

     いつもチャレンジ精神を持ち、あらゆることに興味を持ち、知りたいと思う気持ちを大切にフォローしてあげ
     る環境を大切にする。

英語教育 いままでにないほどに子供達に「話す」機会を与える。「話す」ことを教える。外国人講師は子供達が日本語
     で質問を投げかけた時、必ず質問を英語に直し子供にリピートさせる。

     それぞれの歳に応じた会話の基本を毎日の学習に取り込む。特に生活に必要なフレーズを中心に繰り返しリピ
     ートする環境を設定する。

     デジタルコンテンツなどを学習のサポートツールとして使い、子供達の興味を弾きながら英語は興味ふかく
     て面白い、だから好きを可能にする。

外から見た日本 2021

今年もVOICEを読んでいただきありがとうございました。毎回勝手なことを書いていますが、最近日本を批判するようなことが多いかと反省しています。しかしこれも日本を想う気持ちです。日本は美しい国です。食べ物は世界で一番、特に素材の美味しさでは世界遺産に登録されただけの理由はあります。そんな素晴らしい私達の国がこどもたちの未来に向かってより良くなっていくためには、海外から日本を見つめ考えることも必要かと思います。来る年2022も世界に目を向けた発信を続けたいと思います。
12月、日本脱出を企てた。というのは大げさだが、日本政府がオミクロン株の水際対策として、海外特にオミクロン感染者が出た地域からの帰国者には3日間指定施設での待機要請が出ていた。以前緊急事態宣言下で帰国した外国人スタッフ数名がホテル待機を体験していて、It’s just like jailと言っていた。話では部屋からは一歩も出られず、毎日三食ドアの前にお弁当が配達される。しかし中身は朝から鯖の焼き物や脂身だらけの生姜焼きだったり、やっとパンが支給されたらお菜がしらたきの煮物だったりと外国人にとってはかなりハードなメニューだと言っていた。それにコンビニにもいかれないからコーヒーもビールも買えない。監禁状態である。こんな状態で海外に行きたいという人はアホ以外の何者でもないのだが、私には別の渡航理由があった。今年5月にハワイに住む息子がコロナワクチン接種を段取りしてくれた。もちろん日本でも接種はできたが5月に数年ぶりに5人の子供達とその家族がハワイで集まろうということになり、ハワイに来るのなら接種をして来るか、現地でしたほうがいいということになった。これも息子の親孝行かと受け入れることにした。
 それから数ヶ月たち緊急事態宣言が開け、やっと海外から子供達も戻ってこられると思っていた矢先、オミクロンが現れた。息子は我々の歳を心配してドクターに頼み、通常ソーシャルセキュリティーを持たない者は接種が受けられないところをねじ込んでくれた。こんな話をすると黒部さん、何もそこまでしてハワイまで行ってワクチンを打たなくてもいいんじゃないですか?アホと違いますか?と言われそうだが、もう一つの理由が私に国外脱出を計らせた。それは外国の様子、コロナ禍で他国の入国状況はどうなっているか、街の様子はどうか、またスタッフから聞いていた地獄の3日間は本当なのだろうか。どれもこれも自分で体験、この目で見なければわからないと考えた。なぜならランゲージ・ハウスにはクリスマス休暇で国に帰る外国人が多く、日本への再入国に夜も寝られぬほどに不安を抱えているものが多いこと、また来年外国から入国を予定しているスタッフの現地での近況も気になった。あれこれと考えるよりは行動ということである。
ハワイ、というより外国は日本より自己責任を重んじると感じている。例えば入国に際しても日本のような厳戒態勢は引いていない。どうぞ来たい方はきてください。その代わりどんなことがあっても自己責任でお願いしますね、と言った
対応である。ワクチン接種カードと日本で受けたハワイ州公認PCRの証明書提示は求められるが、日本のように着陸してから空港を出るまでに数時間もかけて検査チェックを行うようなことはない。
 ハワイでは全ての飲食施設、その大小を問わず入り口でのワクチン接種証明カードと身分証明書の提示が義務付けられている。マスクも然りである。この二つをチェックする専門の係を配置しているところも多い。内容チェック後、紙でできた腕輪をもらう。これは店ごとに色が違い、何軒かはしご飲食するとカラフルでファッション性のあるアクセサリーにも見える。日本では未だワクチン接種証明書の提示は義務付けられていない。しかし体温測定やアルコール消毒も一過性な部分があり、基準があって無いようなシステムにも見える。ハワイでは一度店内に入ると実に楽しく会話をしている。日本はお酒が入ると声が大きくなるがオフィス街のランチなどはシーンとしている。飛行機の中で見た香港映画が日本人のそんな光景を映し出し、「シー」と人差し指を立てて他人の会話を注意する姿を皮肉たっぷりに描いていた。外国人はよく見ている。
 滞在中日系ハワイ人のホームパーティーに招かれた。全員ワクチン接種済みというのが条件で参加した。入江に面した家からは日が落ちるとクリスボートのパレードが見える。昨年は自粛したというイベントだそうだが、今年は皆大声で声援を送り、船からは裸同然で踊りまくる人々の姿が見えた。
 「昨年の今頃は暗かった。心も暗くてみんな落ち込んでいた。でもワクチン接種の後は皆その効果を信じて楽しく生活しようとしている。もし羽目を外して感染したとしても個人の責任だ。コロナはそんなに簡単には終わらないことを皆が分かっている。でも人間は我慢しすぎたり、心配しすぎるともっと別の怖い病気になる。ハワイ人はそれをよく知っている。明日をもっといい日にするには
ポジティブに生きる、これがハワイの流儀だ。」と話してくれたパティーのホスト、私は彼を日本に連れて帰りたいと思った。
 日本に戻り3日間のホテル待機を体験した。成田に到着してからホテルに着くまでの時間が7時間、外国人スタッフが体験したと同じように部屋からは一歩も出ていない。テレビを見るかパソコンでネットフリックスを見るか、本を読むかである。窓が5センチしか開かないのでエクササイズをする気にはならずまったりと一日が過ぎていく。私はここが自分の国なので文句を言ってもしょうがないと諦めている。ただ外国人たちはこれをどう受け止めるか。
 日本はすでに外国人労働者なしでは機能しない国になっている。しかしコロナによる鎖国政策で足止めを余儀なくされている外国人はベトナムだけでも3万人はいると言われている。ランゲージ・ハウスも海外から人材が供給できないままでいると大変なことになる。そして何よりも日本に住む外国人はクリスマスに家族と過ごすことは待ちわびている。今更200年続いた鎖国を再現するわけにはいかない。
 

どうして英語に出会ったか

よく「黒部さんはどうして英語が好きになったのですか」と聞かれる。残念ながら英語を勉強の一つだとすると好きになったことはない。私は英語に出会った時から、この言葉が話せれば世界をもっと知ることができると信じていた。
英語に出会ったのは3歳の時に通っていた米軍キャンプのバレエクラスだった。先生は日本人だったが、生徒のほとんどがアメリカ人だった。「わあっ、お人形さんと同じ髪の色をしている!目の色が違う!」と子供心に外国人に対する憧れの気持ちが芽生えた。その子たちのそばに行くと金髪でふわふわの髪がサテンのリボンで結ばれ、そのピンク色は今までに見たことのない外国の色、着ているレオタードもピンクで、私にとっては絵本の中に紛れ込んだような不思議な感覚があった。その時は英語?という言語の意味さえ知らなかったが、少女たちへの憧れは、私も同じ言葉で話したいという気持ちに変わった。
 その後小学生になってビートルズに出会った。といっても彼らの曲と歌詞である。あまりヒットしなかったが”The Fool on the hill”という曲がある。直訳すると「丘の上にいる馬鹿」となるが、メロディーが良かったので何回も聞いていた。そうしているうちにこの男は馬鹿ではないんじゃないかと思うようになった。当時高校生だった従姉妹が英語好きでそのことを質問したところFoolという意味は愚か者、笑い者、瞑想している人、意識のない人などいろいろあり、この曲の場合は他人からは馬鹿に見えても、本当は真実を知っている者というニュアンスが正しいのではないかと話された。確かにSee the sun going down
And the eyes in his head, See the world spinning aroundという歌詞を見ると実は真実を見抜いている男とも理解できる。もちろんそう理解したのは私自身が高校生になってからだが。
 中学生になり英語が書けるようになると、当時流行ったペンフレンドを探し求めた。貿易商を営む叔父がフィリピンの女学生を紹介してくれた。その時叔父がくれた英語の手紙の書き方という本は今でも大切に使っている。クリスマスカードやお礼文などに使う単語が実に綺麗で品がある。多分今では使われなくなった単語もあるかもしれないが、イギリス人にカードを送る時は必ず参考にしている。中学時代はもう一つミュージカル映画が英語学習の起爆剤になった。
The Sound of musicやWest side storyはセリフが覚えられるほどよく見に言った。特にWest side storyはニューヨークアクセントの強いセリフ、スパニッシュ訛りのセリフなど、今まで触れたことのなかった英語の世界を知り、気がつくと少し英語が話せるようになっていた。
 高校時代は英語氷河期だった。英語を教える日本人教師の文法攻めにあい、英語そのものの興味を失った。句や節など私にとってはどうでもよかった。一体こんな勉強を誰が考えたのかわからないが、将来言語学者になる以外は役に立ちそうもないので勉強をする気にもならなかった。結果英語の成績はひどいものだった。酷い者だったが、英語を話すという興味だけは失せてはいなかたので、友人と帝国ホテルのロビーに座って外国人をナンパしたり、国際貿易コンベンションなどを見つけては出かけて言った。ある時晴海で行われたアメリカンフェスタに行ったら本物のNative Americanが踊っていた。アメリカンフードのプロモーションだった。缶詰やクッキーなど色とりどりのディスプレイと英語の文字に圧倒された。日本の鮭缶やコンビーフ缶とは違って見たからに美味しそうだった。(実際には日本の缶詰の方が美味しいのだが)私は缶詰に英語で書かれたレベルの内容を知りたくて一つ購入するとしばらくそれが英語の教材となった。
 大学になって打ちのめされた。同じ年でこんなに英語の話せる人たちがいるということだった。クラスの三分の一が帰国子女、そしてミッションスクール出身という小学校から12年間私が受けた英語教育の何倍もの量をこなしていて英語が身体中に充満しているかのようだった。この先4年間一体どうやってこの人たちとクラスを共にしていくかを考えると絶望的な気持ちになった。特に帰国子女達の発音があまりに外国人で顔も日本人なのにどこか違って見えた。
それでも何とか卒業できたのはこの帰国子女達のおかげである。日本語がよろしくない彼女達と試験やレポートでGive and takeの協定を結んだ。結果はまずまずであった。ときには出席の返事までしてくれる良き友には今でも感謝している。彼女達と話しているとちょっと外国にいるような気分になることもあり、英語はさておいて海外生活への憧れが芽生えたのもこの頃かもしれない。
 就職活動は英語抜きで行った。なぜか。当時英語を使った女性の仕事といえば商社が主流だった。しかし学生時代の成績がそこそこでは到底超えられないハードルだった。負け惜しみではないが商社には興味もなかった。元来事務仕事が嫌いで30分デスクに向かっていると吐きそうになる。まして一日中オフィスで過ごすなどもってのほかである。キャビンアテンダントも多少憧れはしたが試験がかなり難しいと聞いていたので辞退?させていただいた。結局シンクタンクに入社したが、辞めるときに「久保さんはあの大学出ているのに驚くほど英語ができないんだね。」と言われた。真実である。
 それでも私のどこかで海外への憧れは大きくなっていた。仕事を1年半でやめフリーターとしてインチキな翻訳や通訳をやった。インチキというと誤解されるかもしれないが、要するにプロではなかった。しかし英語のニュアンスを取るのは得意で外国人には重宝された。サイマル社からきた女性通訳にあなたの英語はかなりやばいと言われていたが。あちらは時給1万円(当時でさえである)こちらは¥1000だから言われても仕方がない。ただ外国人と一緒に話しているのが楽しかった。
 結婚して1年目で海外での生活が始まった。運よくNYという街に住むことになり、そこで英語の楽しさを体から感じていた。なぜならそこに住む人はコミュニケーションを何よりも大切なものとし、それが生活の糧にもなっていた。
「楽しい生活を送りたかったら英語で隣人に声をかけてごらんなさい。そこから全てが始まります。」と教えてくれた人たち、このエッセイのタイトルである「どうして英語に出会ったか?」は「人に出会ったから」と簡単な答えで締めくくる。

親の決断

私たちは一度子供を授かると、その子の人生の中で親が決断しなければならにことが何度かある。その一つが学校選びである。乳児期から小学校までの学校選択は親の意思決定に関わることが多い。娘が通っていた西町インターナショナルスクールの卒業式で1人の男子学生がこんな話を披露してくれた。
「僕が5歳の時、突然母親が訪問着にキンキラの帯を閉め、いつもより3倍ぐらい念入りに化粧をして、さあ、行くわよと言われました。僕はどこへ行くのかもわからず、気がついたら西町スクールの面接室にいました。母は今まで見たこともない笑顔で先生と話し、同伴していた通訳が母の話を英語で伝えていました。僕の5歳から今日までの人生は母によって決められました。でもずっと楽しかったし英語も話せるようになったので母には感謝しています。」
この話を聞いて私も子供達をより良い学校へ入れるために必死な思いと決断をした時のことを思い出していた。
 アメリカで私立の良い学校に入るには学校と親の面接が物を言う。まず聞かれるのが家での教育方針、子供との会話、将来像などがあるが、同時に質問の合間合間に親は子供の営業マンとなる。売り込むというと誤解されるかもしれないが、自分の子供がいかにこの学校にフィットし、アカデミックな貢献をし、また保護者である自分たちも学校の行事を手伝いながらより良い学校として継続するための努力を惜しまない。などと奥歯が痒くなるような話をポジティブにかつ自信満々に締めくくるのである。また日本の着物は着ないまでも面接にはコンサバティブな装いで挑む。特にマイノリティーと呼ばれる我々アジア人は清楚であることが好まれるようで、父親は間違ってもTシャツにジーパンはNGである。
面接はもちろん英語だが、たとえ文法的に間違った英会話になったとしても相手に伝えようとする意識が重要視される。私はこんなにも我が子をこの学校に入れたい、どうしても入れたい、お願い入れて!ぐらいなパッションを相手に伝えることが面接官の記憶にとどまる。もちろん子供の学習レべル、特に集中力や思考能力などはしっかりと観察されるのだが、親の面接がどれほど強い印象を与えたかどうかは重要なポイントになる。
 私の子供たちはUNIS(United Nations International School)という私立学校に通っていたが、ある時友人から同じ学費を払うならアカデミックな良い学校に転校したほうがいいと言われた。最初はピンとこなかったが考え始めると確かにその通り、バカ高いアメリカの私立学校に品質が備わっていなければ月謝を払う意味がないという友人の意見を聞き入れた。ここで決断である。良い学校はUNISより学費が高い。また転入はハードルが高い。全てが高いずくめである。
しかし子供の将来を考えると、親がここで決断しなければより良い教育は受けられない。お金は日本にいる母に頭を下げた。転入に必要な書類、前の学校からの推薦状のようなものと成績証明書は準備ができた。2人の娘からはなんで転校しなければいけないのかと散々聞かれたが、貴方たちはもっと良い学校で学ぶべきだと振り切った。当時はひどい親だと思ったに違いない。せっかく仲良しの友達ができ、学校生活も不満がなく、部活動も楽しんでいた。なのに転校とは一体自分の親は何を考えているのか、まさにShe is crazyと言われても仕方ない。
 あれから20年以上経っているが、今娘たちは親の決断を快く受け入れている。社会に出て色々な人々に出会い、それぞれの人たちが人生の節目でチャレンジしていることを知り、アメリカでは井の中の蛙はないことを体験した。
 日本はある意味で住みやすい国である。しかしこのぬるま湯に満足してしまうと湯煙で周りが見えなくなってしまう。時にはそこから出て周りを見渡し、自分の可能性を求めて違う水を味わう、幼い頃からそんな意識を子供たちの中に育んでいたら日本の若者の将来はもう少し明るいかもしれない。

保護者と教師のお付き合い

先日実家の母が93歳という高齢で亡くなった。東京は板橋区にある寺の長女として生まれ、一世紀近くを地元の人々との輪の中で生きた。コロナ禍でお通夜や葬儀には参列したくないという方々が多いと思ったが、母は豪華絢爛な花いっぱいの葬儀を望んでいるに違いないと弟と話し合い、祭壇から昔風の宮型霊柩車まで昭和の元気がそこかしこに見られるお葬式を行なった。参列者のほとんどが90歳前後の高齢者であった。その中に私が小学校2年生の時に担任だった坂下先生の姿があった。現在89歳の先生は、当時新潟から東京に赴任してきたばかりで、壇上に立つと緊張で真っ赤になり、新潟弁も抜けきれない話し方をするが、誠実で裏表のない熱心な教育者だったと記憶している。持ち上がりで3年生の担任になり、同時に児童たちも先生に慣れてきたせいか、そう簡単には言うことを聞かない生徒も増え、授業中のおしゃべりもひどくなったある日、先生はクラスの児童全員に詩を配った。「あっても見えない、あっても聞こえない、あっても話せない、そんな目、そんな耳、そんな口」というようなタイトルだったと思う。この詩を読んでいる先生の声が涙声になり、急にクラスが静まり返った。生徒たちは先生にすまない気持ちになり、一緒に泣いてしまった。しかし翌日からクラスの雰囲気は一変し、誰もが坂下先生を中心に3年2組は素晴らしいクラスに変身した。そんな先生が昔を振り返ってこんな話をしてくれた。
「あなたのお母さんが校長先生や他のクラス担任の先生に声をかけて食事会をしてくれた時、先生たちは本当に嬉しそうだったのよ。ほとんどの先生が地方出身で、東京の人たちと食事をしたり、お酒を飲んだりする機会は全くなかったから、やっと地域が自分たちを受け入れてくれたと思ったの。保護者の方々が手作りでお料理を作ってくれて、本当に家族みたいだったわ。」これは1960年代の話であるが、実際教師と生徒の家族が飲み食いするのは自然なことだったようである。母は音楽の先生とも交流を深め、先生が退任すると直ぐに地元で音楽教室を立ち上げて欲しいと持ちかけた。感性を教育して欲しいというのが目的だった。今ランゲージ・ハウスにあるグランドピアノ、マリンバ、小太鼓は全て先生のご遺言で寄付していただいたもので、すでに50年以上経っているが立派にその役割を果たしている。
時は変わって令和3年、コロナの影響もさることながら、小学校の先生を自分の家に招いて食事会などありえないことになってしまった。PTAの集まりでさえ簡素化し、飲めや歌えをワイワイとやるのはどこか世間様にご迷惑というような、何かを心配して積極的に宴会コミュニケーションをやらなくなってしまった今である。
しかし私は日本人の国民性を考えたい。古来日本の村々には多くの祭りがあり、人と人が集まり群れをなすことで形成されていた。日本人は元来飲み食いが好きで、これがコミニュケーションの形成に役立っていた。そしてメンタルな健全性も提供していた。群れをなすことで自信と力を発揮する国民性は日本人の特徴だと言っても過言ではない。しかし日本人の生活スタイルが核家族化し、考え方も昔とは打って変わった。先日ある調査で日本人が幸せを感じる住居環境とは「静かで侵されない」がトップだった。これを見てアメリカのテキサス州で訪問したシニアータウンを思い出した。このコミュニティーには子供がいない。朝から以上な静けさがあり、ゴーストタウンのようだった。道を歩く老人も決して幸せな顔をしていない。しかし彼らは静けさと侵されない安全を求めてここに移ってきたのだが、私は決して住みたいとは思わなかった。人間は誰でも死んだら十分な静けさが与えられている。
10月から緊急事態宣言が緩和される。とは言ってもまだまだ生活の安全を最優先にしなければならない。しかし少なくとも人の波が戻り、数時間でも飲み食いの日本文化が再生されれば、日本人はもっと元気に働けるようになる。できれば保護者と学校の教師がワインでも飲みながらワイワイと教育論を語る、そんな環境をランゲージ・ハウスで作りたい。

東京オリンピックと子供達

2021年東京オリンピックが始まった。波乱万丈な幕開けとなったが世界中から集まった選手たちの顔は屈託無く輝いているように見える。そんな姿を映像を通して見ている私たちも一瞬コロナから解放されたような気持ちにもなる。
それほどに今は明るくて力強いニュースが欲しい。
 1964年に東京オリンピックが開催された時、私は小学生だった。日本は高度成長期の真只中、国にはエネルギーと希望が満ち溢れていた。オリンピックに反対する人はいなかった。日本のオリンピックを成功させようと日本人の心が一つになっていた。選手たちも日本人外国人を問わず燃えていた。近年のオリンピックは勝つために燃えているが、スマートフォーンもPCもなかった当時、まだ見ぬ国日本への好奇心と、競技を戦うための情報が少ないだけに、未知の国での、未知の戦いが選手たちを燃えさせていたように思う。選手たちの平均年齢も高く大人が多かった。女子体操は観客を魅惑する大人の演技が会場を熱くした。バレーボールもママさん選手がいた。子供達は将来あんな選手になりたい、こんな競技に出て見たい遠い将来を夢見る時間がたっぷりとあった。現在活躍しているアスリート達の平均年齢を考えると、夢見る時間は短い。
 私は最近のオリンピックを見ていて嬉しいと思うことがある。一つは今まで白人しか参加できていなかった競技に黒人が参加し成績を上げていることである。例えば水泳、テニスなどは白い競技と言われていた。1964年の東京オリンピック当時、黒人がプールで泳ぐなどはあり得ないことだった。60年代はアメリカ公民権運動が盛んだったが、まだスポーツの世界までには及んでいなかった。2020年少なくともスポーツを選ぶ権利は人種を超えて与えられていると感じている。
 オリンピックが子供達に与えるプラスの影響は、金メダルを獲得した選手の言葉「楽しく演技」「楽しく競技」「楽しくプレイ」など自分で選んだスポーツをオリンピックという晴れの舞台で存分に楽しんでいるというメッセージだと思う。逆に「応援してくださった皆さんのために戦う」「チームのために戦う」「勝つために戦う」という選手が少なくなったようにも思う。楽しんで金メダルを獲得し、応援してくれた方々に感謝、実にシンプルでスッキリとしたスポーツ精神ではないか。
 しかし今回の東京オリンピックは多くの課題も山のように残してくれた。収益を見込むはずだった観客が不在の中で、そこから出るはずだった諸経費の負債をどうするのだろうか。日本はリーダー不在でオリンピックを開催し、それぞれの部署が勝手に動き出し、問題が起きれば「あっそうですか、辞めればいいんですよね」と言った無責任な行動をとる大人たちで溢れていたような気がする。
リーダー不在だとオリンピックで発生するエネルギーが国民に伝わらない。オリンピックが終わって「いったいこれはなんだったのだろう」という複雑な気持ちになった国民も少なくない。1964年のオリンピックは終わってからが始まりだった。国民の力を合わせて世界にもすごい!と認められたオリンピックをやり遂げ、その勢いが日本経済を牽引した。ところが今回は「この瓦礫をどうしようか」という雰囲気である。当事者はオリンピックが終われば後はよろしくお願いしますと言うかのように、国民に向かってお疲れ様の一言もなければ、コロナ禍の開催で国民のみなさまには非常にご迷惑をおかけしました、の一言もない。コロナの脅威が止まらないのも理解できる。しかしリーダーとはあらゆる方面から日本の現状を把握し、見直し、そして何よりも国民を元気付ける方向性を示すことが大切ではないだろうか。オリンピックのような世界的なイベントはその国のこれからの方向性に大きく影響すると言うことを理解し実行してくれるリーダーの出現を望むばかりである。

日本の子供達の行く先

毎朝Podcastでニューヨークタイムズの論説を聞く。最近オリンピック開催間近の日本の状況を話しているのを聞いて、驚くほど日本国民の気持ちを読み取っているのに驚いた。4回目の緊急事態宣言を受けた国民の怒りと戸惑い、コロナワクチン接種計画実行のスローで無計画な状況、これによる国民意識の低下など、経済の停滞感などを含めたリポートを聞いていると、日本の政治家以上に国民を考え考慮した内容を話している。そしてもう一つ、日本の子供達の行く先を危惧しているコメントにはギクリと胸がつまる思いだった。
 内容は日本の富裕層が子供の教育をどのように考えているかということであった。最初に塾の話があった。以前は国内のエリートコースに乗せるための貴重な通過点であったが、今は塾より海外での教育に興味の対象が移っているという。海外での教育といってもビザの問題や学校の選択などクリアーしなければならないハードルが沢山あるが、富裕層の選択は家族全員での日本脱出である。
コロナでリモートワークが一般的になり、国をまたいでの仕事が可能になった。そんな彼らは日本の現状に愛想を尽かし、海外に将来の視点を置く富裕層が増えてきたのは間違いないとレポートしている。今まで富裕層の選択肢として選ばれてきたインターナショナルスクールについても興味深いコメントがあった。日本のインターナショナルスクールは世界に通用あるいは適応できなくなっているとの話だった。一番の理由は英語のアカデミックレベルが低いこと、例えば日本のインターから海外のインターに移籍するとESL(English a second language)を取らなくてはならない日本人生徒が多く、英語のボキャブラリー不足や基本知識の欠如から、将来グローバル企業への就職を希望していても日本人にはかなりハードルの高い現実があるという。また日本のインターナショナルスクールに通う生徒たちがカジュアルに使うジャングリッシュという英語と日本語のチャンポン言葉からの脱出もなかなか難しいという。以前はインターナショナルスクールに行けば商社や外資系企業への道が拓けていたが、これらの企業は日本人より3カ国、4カ国後を話すアジア系を採用するようになっているという現実もある。
 そして話は日本の教育現場を危惧していた。まず日本の教育を牽引するリーダーが存在しないということ、日本の子供達をこう育てたい、こう学ばせたい、こう成長させたいという指針がないこと。また何よりも日本人が危機感として教育の遅れに気がついていないことをあげていた。そんな時日経を読んでいたら日本の教育現場にいる教師の免許に更新義務がなくなったというニュースにショックを受けた。海外では教師の免許更新にはその都度テストが行われ、実際の教育現場に適応できるかなどの判断基準を設けている。日本もつい最近まではあったはずである。廃止の理由は定かではないが、教師が抱えている多くのタスクを削減する目的であるとすれば、どうでもいいような報告書こそ削除し日本の教師の品質を維持するためにも更新時のテストだけは継続してほしいと強く望む。
 国の将来は子供達にかかっている。しかし人々は混沌とした日本の今に不安を感じとてもじゃないが将来のことなど考えられないという人々で溢れている。教育もどうでもいい目先のことにこだわり、大切なことが置き去りにされている。ニューヨークタイムズの話は全て英語だったが、もし時間があれば日本を外から見た人たちの助言を聞いてほしい。

コロナ禍、ハワイにいく

私の5人の子供達、長女はファッションPR、次女はグラフィックデザイン、長男はシェフ、次男はソムリエ、三女はコンサルティングとそれぞれに忙しい。特にレストラン関連の仕事をしている長男、次男はクリスマスやお正月など、普通なら家族揃って集える時期が掻き入れどきである。お正月に家族全員が揃うのはここ10年ほどない。
 昨年コロナで日本以上に大変な思いをした次女が言い出した。コロナだからこそ家族で集まろうと。次女の呼びかけに子供達が答えた。場所は次男の住むハワイである。次男がハワイに暮らして10年になるが無一文でハワイにわたりセレクトショップやホテルで働きながらソムリエの資格を取った。大学に行かなかった彼はそれに変わる資格が欲しかったという。しかし昨年ハワイがロックダウンされた時はレストランの職を危うく失いそうになり、皿洗いからデリバーリーボーイ、コックのアシスタント、レストランに眠っていた高級ワインの販売とマルチで働き首をつなぎとめた。兄弟はそんな次男を応援すべくハワイ集合を呼びかけた。コロナだからこそ家族で集まろうと。私も主人も最初は躊躇したが、またいつ家族全員が集まれるかもわからないと思い決心した。
日本からハワイへの渡航は可能である。ただルールには従わなくてはならない。
まず出航72時間前にPCRテストを受ける。この時ハワイ政府が承認した日本の医療機関で英文の証明書が必要となる。費用は¥30、000、中には¥40000ほど請求するところもあるので注意が必要である。この証明書はチェックインにも必要となる。今日本からハワイへの直行便は日系の航空会社が毎日運行している。ところが日系の航空会社はまるで銀行のようにチェックが細かい。私が渡航日の記入を間違えたのだが、一度書いたものは直せないという。また直したところでハワイの入管が入国を許可する確証はないという。
私は『???』と思った。だいたい入国に必要なのはパスポートである。PCRテストは渡航者の健康状態を証明するものである。証明書には検査日時と陰性結果が明記されている。間違えた0と1の数字は直すだけで問題ないと思うのだが、係員は「ハワイ当局に問い合わせなくてはなりません。」の一点張りである。待たされて20分、ハワイの入管から回答がないまま私は係員に言った。「ハワイ当局には私自身が対応します。0と1が間違っていたからと言って搭乗できない理由がない限り私は予定どおりに搭乗します。」係員はブツブツ言っていたが少々お待ちくださいと言って何やら一枚の紙を持ってきた。内容は私がハワイ当局に入国を拒否されても航空会社は一切の責任を取りませんというものだった。ここに至るまで30分無駄な時間を過ごしたと思ったが、航空会社としてもう少し乗客の気分を和らげる対応はできないのかと思った。私は通常DELTAを利用する。太ったおばちゃんやリタイヤーが近いシニアのおじちゃんCAが搭乗しているが、なんともおおらかでカジュアルである。どこの航空会社にも接客マニュアルはあるのだろうが、彼らと話しているとこれからの旅が楽しく思えてくる。これは乗客に対して大切なサービスの一環であると思う。
 ハワイに到着すると、あの証明書の件が頭をよぎった。ちょっとドキドキする。入国はできると思うがホテルに2週間とか言われたらどうしようと余計なことが頭をよぎった。入管の窓口でいつも聞かれるのはハワイに来た理由である。” Family gathering “と一言。係員は微笑みながら” Enjoy!”と言って入国スタンプを押した。私はこの時点から日本のルールから解放されたと思った。日本はルールの国で世界的にも有名だが、ルールのルールだけを見てしまい、時に人に嫌な気持ちを起こさせることがある。ルールを守るのは当然だが、ルールをルール以上にしてしまう日本人が最近増えたようで怖い。コロナのせいだろうか。
 ハワイの街は経済が戻っていた。コロナ禍のワークスタイルとしてのリモートワークが盛んになると、本土から大勢の人が移住して来た。そのため不動産は高騰し、レンタカーは昨年の倍に跳ね上がった。レストランもアメリカ本土からの観光客で溢れ、予約も取りづらい状況になっていた。人々の顔には笑顔が戻り
開放感に溢れている。ハワイのワクチン接種率は高く、一部の若者を覗きほとんど接種は完了している。これはハワイ州だけでなくアメリカ本土も同様である。
昨年あれだけコロナに叩かれ希望を失っていた人々が今間違いなく希望を取り戻している。バイデン政権のコロナワクチン接種対策はものすごいスピードでこの国を元気にしている。
 私は常々政権を管理するリーダーにはスピードが不可欠であると思っている。
また物事の決定に関して、一度公表したら始めと終わりをしっかり見極めて国民を安心させてもらいたいと思う。帰国後飲食業を営むご主人が「日本の行政には私たちに寄り添ってくれているとは思えません。緊急事態宣言は既に3回も伸ばされ、その度に営業時間が変わり、飲酒はダメだという。飲酒は百害ではありません。コロナでも安全を確保しながら友人と会食することで、メンタルの病にかかる人は防げる。コロナはもちろん危険な病気ですが、メンタルな病気にかかったら一生です。時には命を落とすことさえある。こんな側面日本の政府はどう思っているんでしょうか。」ご主人の話は切実さがあった。私も同じことを思う。日本の国民にこれ以上悲壮感を与えないためにも、何をいつまでにどうするかをはっきり公表してほしい。一度公表したら政府は目標に向かって全力で取り組んでほしい。どこの業界に商品の納期を二度も三度も変えるえるところがあるだろうか。約束を二度も三度も伸ばすところがあるだろうか。食堂のご主人は続けた。「日本人だからこんなに振り回されても我慢できるんです。行政からのルールという大義名分に従わなくてはいけない、従わないと罰せられるとみんなが思っている。こんな日本ってありですか。まるで戦争中みたいです。」
 ハワイから日本への帰国は、搭乗72時間前にPCRテストを受ける。今度は日本語での証明書を発行してもらう。費用は¥20、000、これがないと帰国便への登場ができない。さらに羽田で再度PCRテストを受ける。航空会社から来たメールにはおびただしい枚数の書類をダウンロードするよう指示されていた。書類は羽田で計3回にわたり確認される。驚いたのは最終チェックで係員が15項目のチェックリストに一つ一つハンコを押していく。これを何百人もいる待合室の中で一人一人に行う。ここに至っては冗談としか思えなかった。私を担当してくれた係員はハンコのインクが切れてしまい、ほぼ使えない印を機械的に推していた。また日本の入管が設定したLOCATORという位置情報MySOSという体調確認アプリをダウンロードしなければならない。このアプリの説明には各係官が入国者一人一人に行うので大変な時間がかかる。着陸してから税関を出るまで3時間半を費やした。
 こんなことを書いているとコロナ禍にハワイなんぞに行くからと言われそうだが、コロナ禍だからこそ他の国の様子をこの目で見たかった。人々の様子を知りたかった。まだ海外に行けないと思い込んでいる日本人に「大丈夫、行かれますよ」と言いたかった。今の日本は緊急事態宣言という目に見えないルールが人々の行動範囲を極端に規制しているが、そのどこにも海外に行っては行けないとは書いていない。
不思議なことに日本はまだオリンピックを諦めていないようだ。私的意見としてはオリンピックに使われる莫大な費用を、今貧窮している社会に使うべきだと思うのだが、それでもオリンピックをやろうとするなら、開催国として責任ある対応を海外に向けて発信してもらいたいと切に思う。未だコロナの状況が非常に悪いとの評価を国際機関から受けていることを真摯に捉え、日本国民、そして海外からくる人々が安心できるコロナ対策の具体案と実行デッドラインを明確にしてほしい。いつまでもダラダラとした対応が日本の経済の回復を極端に送らせ、海外からも人が来なくなる、さらに経済は悪くなる。
 ランゲージ・ハウスの子供達を見ていると、もしかしたらこの子達の将来は日本より海外の方がいいのではないかという思いが過ぎる。数年前までは私の中にはなかった感覚である。日本はまだまだ大丈夫という感覚を取り戻すにはまず自分が最大限の努力をする以外になさそうである。

5月に考える夏休み

日本の社会は4月1日をもって学校や会社が新しい年のスタートをきる。
連休が終わり気持ち新たに5月をスタートする人たちもたくさんいると思う。
所変わるとこの5月は卒業式のシーズンとなり、特に教育機関では年度の終わりとなる。私の子供達がニューヨークの学校に通っていた頃、5月に入るといきなり夏休みモードになる。ママたちの間では夏にどうするああするといったバケーション計画で話が盛り上がり、同時に3ヶ月もの間子供達をどこのサマーキャンプに入れるかでまた話が盛り上がる。下手をすると4ヶ月以上という恐ろしく長い夏休みをどう過ごすかはファミリーにとって重大な問題である。夫婦共稼ぎがほとんどなので4か月もの間子供が家にいてもらっては困るというのが正直な気持ちなのだ。ところがこのサマーキャンプもコロナによって変化を余儀なくされている。日本も夏休みになると田舎のおばあちゃんの家にお世話になるというパターンがコロナになってからは「お願いだから来ないでちょうだい」という状況、これは海外も同じで特にヨーロッパ諸国におばあちゃんおじいちゃんがいる家族にとっては大きな痛手である。かといってアメリカの田舎にあるキャンプに入れるかというと、そこで働くスタッフの衛生管理に不安をいだく保護者も多く、これも積極的に参加に踏み切れない。まして街中でやっているデイキャンプはほとんど完全クローズの状態である。アメリカの公立学校はやっと再開したばかり、アフタースクールプログラムまでは手が回らない。そこへ行くと日本の夏休みは1ヶ月少々、学童など民間での夏休みお助けプログラムもニューヨークの三分の一ほどの料金で参加でき、地域でも自治会等が夏休みの間にいくつかのイベントを企画してくれる。しかし別の側面から考えると、長い夏を友達との共同生活で培われるものは多い。自分の家ではわがままやり放題の生活を直すよい機械にもなる。私も子供達をサマーキャンプに送った。料金が安いので食事や寝室はかなり粗悪だったようだが、贅沢なホテルで過ごすより子供達が得るものは大きい。時には子供達に目的地の地図だけ持たせ、携帯末端なしにそこにたどり着かせるというゲームも行う。子供達は最初不安で青ざめるが、目的を達成した時の喜びは大きい。
今の学校教育は与えられることが多いが、自分で考え解決策を見出すというプログラムが少ないと感じる。またコロナによって他人との接触が希薄になり共同作業とか共同生活ができない子供達が多くなった。これは大変な問題で将来の仕事にも大きく影響する。なぜならどんな仕事も自分1人で完結できるものがないからである。日本の短い夏休みでどれだけ子供達にアドべンチャーの機会を与えられるかはわからないが、夏休みのあり方を真剣に考える保護者が1人でも増えてくれることを望む。

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