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ILH代表黒部のブログ

親の決断

私たちは一度子供を授かると、その子の人生の中で親が決断しなければならにことが何度かある。その一つが学校選びである。乳児期から小学校までの学校選択は親の意思決定に関わることが多い。娘が通っていた西町インターナショナルスクールの卒業式で1人の男子学生がこんな話を披露してくれた。
「僕が5歳の時、突然母親が訪問着にキンキラの帯を閉め、いつもより3倍ぐらい念入りに化粧をして、さあ、行くわよと言われました。僕はどこへ行くのかもわからず、気がついたら西町スクールの面接室にいました。母は今まで見たこともない笑顔で先生と話し、同伴していた通訳が母の話を英語で伝えていました。僕の5歳から今日までの人生は母によって決められました。でもずっと楽しかったし英語も話せるようになったので母には感謝しています。」
この話を聞いて私も子供達をより良い学校へ入れるために必死な思いと決断をした時のことを思い出していた。
 アメリカで私立の良い学校に入るには学校と親の面接が物を言う。まず聞かれるのが家での教育方針、子供との会話、将来像などがあるが、同時に質問の合間合間に親は子供の営業マンとなる。売り込むというと誤解されるかもしれないが、自分の子供がいかにこの学校にフィットし、アカデミックな貢献をし、また保護者である自分たちも学校の行事を手伝いながらより良い学校として継続するための努力を惜しまない。などと奥歯が痒くなるような話をポジティブにかつ自信満々に締めくくるのである。また日本の着物は着ないまでも面接にはコンサバティブな装いで挑む。特にマイノリティーと呼ばれる我々アジア人は清楚であることが好まれるようで、父親は間違ってもTシャツにジーパンはNGである。
面接はもちろん英語だが、たとえ文法的に間違った英会話になったとしても相手に伝えようとする意識が重要視される。私はこんなにも我が子をこの学校に入れたい、どうしても入れたい、お願い入れて!ぐらいなパッションを相手に伝えることが面接官の記憶にとどまる。もちろん子供の学習レべル、特に集中力や思考能力などはしっかりと観察されるのだが、親の面接がどれほど強い印象を与えたかどうかは重要なポイントになる。
 私の子供たちはUNIS(United Nations International School)という私立学校に通っていたが、ある時友人から同じ学費を払うならアカデミックな良い学校に転校したほうがいいと言われた。最初はピンとこなかったが考え始めると確かにその通り、バカ高いアメリカの私立学校に品質が備わっていなければ月謝を払う意味がないという友人の意見を聞き入れた。ここで決断である。良い学校はUNISより学費が高い。また転入はハードルが高い。全てが高いずくめである。
しかし子供の将来を考えると、親がここで決断しなければより良い教育は受けられない。お金は日本にいる母に頭を下げた。転入に必要な書類、前の学校からの推薦状のようなものと成績証明書は準備ができた。2人の娘からはなんで転校しなければいけないのかと散々聞かれたが、貴方たちはもっと良い学校で学ぶべきだと振り切った。当時はひどい親だと思ったに違いない。せっかく仲良しの友達ができ、学校生活も不満がなく、部活動も楽しんでいた。なのに転校とは一体自分の親は何を考えているのか、まさにShe is crazyと言われても仕方ない。
 あれから20年以上経っているが、今娘たちは親の決断を快く受け入れている。社会に出て色々な人々に出会い、それぞれの人たちが人生の節目でチャレンジしていることを知り、アメリカでは井の中の蛙はないことを体験した。
 日本はある意味で住みやすい国である。しかしこのぬるま湯に満足してしまうと湯煙で周りが見えなくなってしまう。時にはそこから出て周りを見渡し、自分の可能性を求めて違う水を味わう、幼い頃からそんな意識を子供たちの中に育んでいたら日本の若者の将来はもう少し明るいかもしれない。

保護者と教師のお付き合い

先日実家の母が93歳という高齢で亡くなった。東京は板橋区にある寺の長女として生まれ、一世紀近くを地元の人々との輪の中で生きた。コロナ禍でお通夜や葬儀には参列したくないという方々が多いと思ったが、母は豪華絢爛な花いっぱいの葬儀を望んでいるに違いないと弟と話し合い、祭壇から昔風の宮型霊柩車まで昭和の元気がそこかしこに見られるお葬式を行なった。参列者のほとんどが90歳前後の高齢者であった。その中に私が小学校2年生の時に担任だった坂下先生の姿があった。現在89歳の先生は、当時新潟から東京に赴任してきたばかりで、壇上に立つと緊張で真っ赤になり、新潟弁も抜けきれない話し方をするが、誠実で裏表のない熱心な教育者だったと記憶している。持ち上がりで3年生の担任になり、同時に児童たちも先生に慣れてきたせいか、そう簡単には言うことを聞かない生徒も増え、授業中のおしゃべりもひどくなったある日、先生はクラスの児童全員に詩を配った。「あっても見えない、あっても聞こえない、あっても話せない、そんな目、そんな耳、そんな口」というようなタイトルだったと思う。この詩を読んでいる先生の声が涙声になり、急にクラスが静まり返った。生徒たちは先生にすまない気持ちになり、一緒に泣いてしまった。しかし翌日からクラスの雰囲気は一変し、誰もが坂下先生を中心に3年2組は素晴らしいクラスに変身した。そんな先生が昔を振り返ってこんな話をしてくれた。
「あなたのお母さんが校長先生や他のクラス担任の先生に声をかけて食事会をしてくれた時、先生たちは本当に嬉しそうだったのよ。ほとんどの先生が地方出身で、東京の人たちと食事をしたり、お酒を飲んだりする機会は全くなかったから、やっと地域が自分たちを受け入れてくれたと思ったの。保護者の方々が手作りでお料理を作ってくれて、本当に家族みたいだったわ。」これは1960年代の話であるが、実際教師と生徒の家族が飲み食いするのは自然なことだったようである。母は音楽の先生とも交流を深め、先生が退任すると直ぐに地元で音楽教室を立ち上げて欲しいと持ちかけた。感性を教育して欲しいというのが目的だった。今ランゲージ・ハウスにあるグランドピアノ、マリンバ、小太鼓は全て先生のご遺言で寄付していただいたもので、すでに50年以上経っているが立派にその役割を果たしている。
時は変わって令和3年、コロナの影響もさることながら、小学校の先生を自分の家に招いて食事会などありえないことになってしまった。PTAの集まりでさえ簡素化し、飲めや歌えをワイワイとやるのはどこか世間様にご迷惑というような、何かを心配して積極的に宴会コミュニケーションをやらなくなってしまった今である。
しかし私は日本人の国民性を考えたい。古来日本の村々には多くの祭りがあり、人と人が集まり群れをなすことで形成されていた。日本人は元来飲み食いが好きで、これがコミニュケーションの形成に役立っていた。そしてメンタルな健全性も提供していた。群れをなすことで自信と力を発揮する国民性は日本人の特徴だと言っても過言ではない。しかし日本人の生活スタイルが核家族化し、考え方も昔とは打って変わった。先日ある調査で日本人が幸せを感じる住居環境とは「静かで侵されない」がトップだった。これを見てアメリカのテキサス州で訪問したシニアータウンを思い出した。このコミュニティーには子供がいない。朝から以上な静けさがあり、ゴーストタウンのようだった。道を歩く老人も決して幸せな顔をしていない。しかし彼らは静けさと侵されない安全を求めてここに移ってきたのだが、私は決して住みたいとは思わなかった。人間は誰でも死んだら十分な静けさが与えられている。
10月から緊急事態宣言が緩和される。とは言ってもまだまだ生活の安全を最優先にしなければならない。しかし少なくとも人の波が戻り、数時間でも飲み食いの日本文化が再生されれば、日本人はもっと元気に働けるようになる。できれば保護者と学校の教師がワインでも飲みながらワイワイと教育論を語る、そんな環境をランゲージ・ハウスで作りたい。

東京オリンピックと子供達

2021年東京オリンピックが始まった。波乱万丈な幕開けとなったが世界中から集まった選手たちの顔は屈託無く輝いているように見える。そんな姿を映像を通して見ている私たちも一瞬コロナから解放されたような気持ちにもなる。
それほどに今は明るくて力強いニュースが欲しい。
 1964年に東京オリンピックが開催された時、私は小学生だった。日本は高度成長期の真只中、国にはエネルギーと希望が満ち溢れていた。オリンピックに反対する人はいなかった。日本のオリンピックを成功させようと日本人の心が一つになっていた。選手たちも日本人外国人を問わず燃えていた。近年のオリンピックは勝つために燃えているが、スマートフォーンもPCもなかった当時、まだ見ぬ国日本への好奇心と、競技を戦うための情報が少ないだけに、未知の国での、未知の戦いが選手たちを燃えさせていたように思う。選手たちの平均年齢も高く大人が多かった。女子体操は観客を魅惑する大人の演技が会場を熱くした。バレーボールもママさん選手がいた。子供達は将来あんな選手になりたい、こんな競技に出て見たい遠い将来を夢見る時間がたっぷりとあった。現在活躍しているアスリート達の平均年齢を考えると、夢見る時間は短い。
 私は最近のオリンピックを見ていて嬉しいと思うことがある。一つは今まで白人しか参加できていなかった競技に黒人が参加し成績を上げていることである。例えば水泳、テニスなどは白い競技と言われていた。1964年の東京オリンピック当時、黒人がプールで泳ぐなどはあり得ないことだった。60年代はアメリカ公民権運動が盛んだったが、まだスポーツの世界までには及んでいなかった。2020年少なくともスポーツを選ぶ権利は人種を超えて与えられていると感じている。
 オリンピックが子供達に与えるプラスの影響は、金メダルを獲得した選手の言葉「楽しく演技」「楽しく競技」「楽しくプレイ」など自分で選んだスポーツをオリンピックという晴れの舞台で存分に楽しんでいるというメッセージだと思う。逆に「応援してくださった皆さんのために戦う」「チームのために戦う」「勝つために戦う」という選手が少なくなったようにも思う。楽しんで金メダルを獲得し、応援してくれた方々に感謝、実にシンプルでスッキリとしたスポーツ精神ではないか。
 しかし今回の東京オリンピックは多くの課題も山のように残してくれた。収益を見込むはずだった観客が不在の中で、そこから出るはずだった諸経費の負債をどうするのだろうか。日本はリーダー不在でオリンピックを開催し、それぞれの部署が勝手に動き出し、問題が起きれば「あっそうですか、辞めればいいんですよね」と言った無責任な行動をとる大人たちで溢れていたような気がする。
リーダー不在だとオリンピックで発生するエネルギーが国民に伝わらない。オリンピックが終わって「いったいこれはなんだったのだろう」という複雑な気持ちになった国民も少なくない。1964年のオリンピックは終わってからが始まりだった。国民の力を合わせて世界にもすごい!と認められたオリンピックをやり遂げ、その勢いが日本経済を牽引した。ところが今回は「この瓦礫をどうしようか」という雰囲気である。当事者はオリンピックが終われば後はよろしくお願いしますと言うかのように、国民に向かってお疲れ様の一言もなければ、コロナ禍の開催で国民のみなさまには非常にご迷惑をおかけしました、の一言もない。コロナの脅威が止まらないのも理解できる。しかしリーダーとはあらゆる方面から日本の現状を把握し、見直し、そして何よりも国民を元気付ける方向性を示すことが大切ではないだろうか。オリンピックのような世界的なイベントはその国のこれからの方向性に大きく影響すると言うことを理解し実行してくれるリーダーの出現を望むばかりである。

日本の子供達の行く先

毎朝Podcastでニューヨークタイムズの論説を聞く。最近オリンピック開催間近の日本の状況を話しているのを聞いて、驚くほど日本国民の気持ちを読み取っているのに驚いた。4回目の緊急事態宣言を受けた国民の怒りと戸惑い、コロナワクチン接種計画実行のスローで無計画な状況、これによる国民意識の低下など、経済の停滞感などを含めたリポートを聞いていると、日本の政治家以上に国民を考え考慮した内容を話している。そしてもう一つ、日本の子供達の行く先を危惧しているコメントにはギクリと胸がつまる思いだった。
 内容は日本の富裕層が子供の教育をどのように考えているかということであった。最初に塾の話があった。以前は国内のエリートコースに乗せるための貴重な通過点であったが、今は塾より海外での教育に興味の対象が移っているという。海外での教育といってもビザの問題や学校の選択などクリアーしなければならないハードルが沢山あるが、富裕層の選択は家族全員での日本脱出である。
コロナでリモートワークが一般的になり、国をまたいでの仕事が可能になった。そんな彼らは日本の現状に愛想を尽かし、海外に将来の視点を置く富裕層が増えてきたのは間違いないとレポートしている。今まで富裕層の選択肢として選ばれてきたインターナショナルスクールについても興味深いコメントがあった。日本のインターナショナルスクールは世界に通用あるいは適応できなくなっているとの話だった。一番の理由は英語のアカデミックレベルが低いこと、例えば日本のインターから海外のインターに移籍するとESL(English a second language)を取らなくてはならない日本人生徒が多く、英語のボキャブラリー不足や基本知識の欠如から、将来グローバル企業への就職を希望していても日本人にはかなりハードルの高い現実があるという。また日本のインターナショナルスクールに通う生徒たちがカジュアルに使うジャングリッシュという英語と日本語のチャンポン言葉からの脱出もなかなか難しいという。以前はインターナショナルスクールに行けば商社や外資系企業への道が拓けていたが、これらの企業は日本人より3カ国、4カ国後を話すアジア系を採用するようになっているという現実もある。
 そして話は日本の教育現場を危惧していた。まず日本の教育を牽引するリーダーが存在しないということ、日本の子供達をこう育てたい、こう学ばせたい、こう成長させたいという指針がないこと。また何よりも日本人が危機感として教育の遅れに気がついていないことをあげていた。そんな時日経を読んでいたら日本の教育現場にいる教師の免許に更新義務がなくなったというニュースにショックを受けた。海外では教師の免許更新にはその都度テストが行われ、実際の教育現場に適応できるかなどの判断基準を設けている。日本もつい最近まではあったはずである。廃止の理由は定かではないが、教師が抱えている多くのタスクを削減する目的であるとすれば、どうでもいいような報告書こそ削除し日本の教師の品質を維持するためにも更新時のテストだけは継続してほしいと強く望む。
 国の将来は子供達にかかっている。しかし人々は混沌とした日本の今に不安を感じとてもじゃないが将来のことなど考えられないという人々で溢れている。教育もどうでもいい目先のことにこだわり、大切なことが置き去りにされている。ニューヨークタイムズの話は全て英語だったが、もし時間があれば日本を外から見た人たちの助言を聞いてほしい。

コロナ禍、ハワイにいく

私の5人の子供達、長女はファッションPR、次女はグラフィックデザイン、長男はシェフ、次男はソムリエ、三女はコンサルティングとそれぞれに忙しい。特にレストラン関連の仕事をしている長男、次男はクリスマスやお正月など、普通なら家族揃って集える時期が掻き入れどきである。お正月に家族全員が揃うのはここ10年ほどない。
 昨年コロナで日本以上に大変な思いをした次女が言い出した。コロナだからこそ家族で集まろうと。次女の呼びかけに子供達が答えた。場所は次男の住むハワイである。次男がハワイに暮らして10年になるが無一文でハワイにわたりセレクトショップやホテルで働きながらソムリエの資格を取った。大学に行かなかった彼はそれに変わる資格が欲しかったという。しかし昨年ハワイがロックダウンされた時はレストランの職を危うく失いそうになり、皿洗いからデリバーリーボーイ、コックのアシスタント、レストランに眠っていた高級ワインの販売とマルチで働き首をつなぎとめた。兄弟はそんな次男を応援すべくハワイ集合を呼びかけた。コロナだからこそ家族で集まろうと。私も主人も最初は躊躇したが、またいつ家族全員が集まれるかもわからないと思い決心した。
日本からハワイへの渡航は可能である。ただルールには従わなくてはならない。
まず出航72時間前にPCRテストを受ける。この時ハワイ政府が承認した日本の医療機関で英文の証明書が必要となる。費用は¥30、000、中には¥40000ほど請求するところもあるので注意が必要である。この証明書はチェックインにも必要となる。今日本からハワイへの直行便は日系の航空会社が毎日運行している。ところが日系の航空会社はまるで銀行のようにチェックが細かい。私が渡航日の記入を間違えたのだが、一度書いたものは直せないという。また直したところでハワイの入管が入国を許可する確証はないという。
私は『???』と思った。だいたい入国に必要なのはパスポートである。PCRテストは渡航者の健康状態を証明するものである。証明書には検査日時と陰性結果が明記されている。間違えた0と1の数字は直すだけで問題ないと思うのだが、係員は「ハワイ当局に問い合わせなくてはなりません。」の一点張りである。待たされて20分、ハワイの入管から回答がないまま私は係員に言った。「ハワイ当局には私自身が対応します。0と1が間違っていたからと言って搭乗できない理由がない限り私は予定どおりに搭乗します。」係員はブツブツ言っていたが少々お待ちくださいと言って何やら一枚の紙を持ってきた。内容は私がハワイ当局に入国を拒否されても航空会社は一切の責任を取りませんというものだった。ここに至るまで30分無駄な時間を過ごしたと思ったが、航空会社としてもう少し乗客の気分を和らげる対応はできないのかと思った。私は通常DELTAを利用する。太ったおばちゃんやリタイヤーが近いシニアのおじちゃんCAが搭乗しているが、なんともおおらかでカジュアルである。どこの航空会社にも接客マニュアルはあるのだろうが、彼らと話しているとこれからの旅が楽しく思えてくる。これは乗客に対して大切なサービスの一環であると思う。
 ハワイに到着すると、あの証明書の件が頭をよぎった。ちょっとドキドキする。入国はできると思うがホテルに2週間とか言われたらどうしようと余計なことが頭をよぎった。入管の窓口でいつも聞かれるのはハワイに来た理由である。” Family gathering “と一言。係員は微笑みながら” Enjoy!”と言って入国スタンプを押した。私はこの時点から日本のルールから解放されたと思った。日本はルールの国で世界的にも有名だが、ルールのルールだけを見てしまい、時に人に嫌な気持ちを起こさせることがある。ルールを守るのは当然だが、ルールをルール以上にしてしまう日本人が最近増えたようで怖い。コロナのせいだろうか。
 ハワイの街は経済が戻っていた。コロナ禍のワークスタイルとしてのリモートワークが盛んになると、本土から大勢の人が移住して来た。そのため不動産は高騰し、レンタカーは昨年の倍に跳ね上がった。レストランもアメリカ本土からの観光客で溢れ、予約も取りづらい状況になっていた。人々の顔には笑顔が戻り
開放感に溢れている。ハワイのワクチン接種率は高く、一部の若者を覗きほとんど接種は完了している。これはハワイ州だけでなくアメリカ本土も同様である。
昨年あれだけコロナに叩かれ希望を失っていた人々が今間違いなく希望を取り戻している。バイデン政権のコロナワクチン接種対策はものすごいスピードでこの国を元気にしている。
 私は常々政権を管理するリーダーにはスピードが不可欠であると思っている。
また物事の決定に関して、一度公表したら始めと終わりをしっかり見極めて国民を安心させてもらいたいと思う。帰国後飲食業を営むご主人が「日本の行政には私たちに寄り添ってくれているとは思えません。緊急事態宣言は既に3回も伸ばされ、その度に営業時間が変わり、飲酒はダメだという。飲酒は百害ではありません。コロナでも安全を確保しながら友人と会食することで、メンタルの病にかかる人は防げる。コロナはもちろん危険な病気ですが、メンタルな病気にかかったら一生です。時には命を落とすことさえある。こんな側面日本の政府はどう思っているんでしょうか。」ご主人の話は切実さがあった。私も同じことを思う。日本の国民にこれ以上悲壮感を与えないためにも、何をいつまでにどうするかをはっきり公表してほしい。一度公表したら政府は目標に向かって全力で取り組んでほしい。どこの業界に商品の納期を二度も三度も変えるえるところがあるだろうか。約束を二度も三度も伸ばすところがあるだろうか。食堂のご主人は続けた。「日本人だからこんなに振り回されても我慢できるんです。行政からのルールという大義名分に従わなくてはいけない、従わないと罰せられるとみんなが思っている。こんな日本ってありですか。まるで戦争中みたいです。」
 ハワイから日本への帰国は、搭乗72時間前にPCRテストを受ける。今度は日本語での証明書を発行してもらう。費用は¥20、000、これがないと帰国便への登場ができない。さらに羽田で再度PCRテストを受ける。航空会社から来たメールにはおびただしい枚数の書類をダウンロードするよう指示されていた。書類は羽田で計3回にわたり確認される。驚いたのは最終チェックで係員が15項目のチェックリストに一つ一つハンコを押していく。これを何百人もいる待合室の中で一人一人に行う。ここに至っては冗談としか思えなかった。私を担当してくれた係員はハンコのインクが切れてしまい、ほぼ使えない印を機械的に推していた。また日本の入管が設定したLOCATORという位置情報MySOSという体調確認アプリをダウンロードしなければならない。このアプリの説明には各係官が入国者一人一人に行うので大変な時間がかかる。着陸してから税関を出るまで3時間半を費やした。
 こんなことを書いているとコロナ禍にハワイなんぞに行くからと言われそうだが、コロナ禍だからこそ他の国の様子をこの目で見たかった。人々の様子を知りたかった。まだ海外に行けないと思い込んでいる日本人に「大丈夫、行かれますよ」と言いたかった。今の日本は緊急事態宣言という目に見えないルールが人々の行動範囲を極端に規制しているが、そのどこにも海外に行っては行けないとは書いていない。
不思議なことに日本はまだオリンピックを諦めていないようだ。私的意見としてはオリンピックに使われる莫大な費用を、今貧窮している社会に使うべきだと思うのだが、それでもオリンピックをやろうとするなら、開催国として責任ある対応を海外に向けて発信してもらいたいと切に思う。未だコロナの状況が非常に悪いとの評価を国際機関から受けていることを真摯に捉え、日本国民、そして海外からくる人々が安心できるコロナ対策の具体案と実行デッドラインを明確にしてほしい。いつまでもダラダラとした対応が日本の経済の回復を極端に送らせ、海外からも人が来なくなる、さらに経済は悪くなる。
 ランゲージ・ハウスの子供達を見ていると、もしかしたらこの子達の将来は日本より海外の方がいいのではないかという思いが過ぎる。数年前までは私の中にはなかった感覚である。日本はまだまだ大丈夫という感覚を取り戻すにはまず自分が最大限の努力をする以外になさそうである。

5月に考える夏休み

日本の社会は4月1日をもって学校や会社が新しい年のスタートをきる。
連休が終わり気持ち新たに5月をスタートする人たちもたくさんいると思う。
所変わるとこの5月は卒業式のシーズンとなり、特に教育機関では年度の終わりとなる。私の子供達がニューヨークの学校に通っていた頃、5月に入るといきなり夏休みモードになる。ママたちの間では夏にどうするああするといったバケーション計画で話が盛り上がり、同時に3ヶ月もの間子供達をどこのサマーキャンプに入れるかでまた話が盛り上がる。下手をすると4ヶ月以上という恐ろしく長い夏休みをどう過ごすかはファミリーにとって重大な問題である。夫婦共稼ぎがほとんどなので4か月もの間子供が家にいてもらっては困るというのが正直な気持ちなのだ。ところがこのサマーキャンプもコロナによって変化を余儀なくされている。日本も夏休みになると田舎のおばあちゃんの家にお世話になるというパターンがコロナになってからは「お願いだから来ないでちょうだい」という状況、これは海外も同じで特にヨーロッパ諸国におばあちゃんおじいちゃんがいる家族にとっては大きな痛手である。かといってアメリカの田舎にあるキャンプに入れるかというと、そこで働くスタッフの衛生管理に不安をいだく保護者も多く、これも積極的に参加に踏み切れない。まして街中でやっているデイキャンプはほとんど完全クローズの状態である。アメリカの公立学校はやっと再開したばかり、アフタースクールプログラムまでは手が回らない。そこへ行くと日本の夏休みは1ヶ月少々、学童など民間での夏休みお助けプログラムもニューヨークの三分の一ほどの料金で参加でき、地域でも自治会等が夏休みの間にいくつかのイベントを企画してくれる。しかし別の側面から考えると、長い夏を友達との共同生活で培われるものは多い。自分の家ではわがままやり放題の生活を直すよい機械にもなる。私も子供達をサマーキャンプに送った。料金が安いので食事や寝室はかなり粗悪だったようだが、贅沢なホテルで過ごすより子供達が得るものは大きい。時には子供達に目的地の地図だけ持たせ、携帯末端なしにそこにたどり着かせるというゲームも行う。子供達は最初不安で青ざめるが、目的を達成した時の喜びは大きい。
今の学校教育は与えられることが多いが、自分で考え解決策を見出すというプログラムが少ないと感じる。またコロナによって他人との接触が希薄になり共同作業とか共同生活ができない子供達が多くなった。これは大変な問題で将来の仕事にも大きく影響する。なぜならどんな仕事も自分1人で完結できるものがないからである。日本の短い夏休みでどれだけ子供達にアドべンチャーの機会を与えられるかはわからないが、夏休みのあり方を真剣に考える保護者が1人でも増えてくれることを望む。

幼稚部設立10年目の思い

 ランゲージ・ハウス幼稚部を設立してから今年で10年目になる。この間多くの保護者の方々、また関係者の方々にはこのコラムを借りて深い感謝と共にお礼を申し上げたい。10年といっても学校経営ではまだまだヒヨコである。
初心に戻るべく、ここで簡単に幼稚部設立までを簡単にお話しする。
 ランゲージ・ハウス幼稚部の基盤になったのは、ホームステイしていた留学生のお小遣い稼ぎが目的であった。近隣の子供達に英語といっても、英語でアート、英語でバスケットボール、英語でダンスといった楽しいことを外国人と一緒にやってみようといったものだった。そうこうしているうちに東京の保育園から楽しいそうなプログラムなので外国人を派遣してくれないかということになり、これが派遣事業の基盤になった。しかし習い事だと一過性で子供達にどれくらい英語が育まれているのかがわからなかった。私は元々英語塾には疑問を感じていた。What is your name? What is this Color?, What is this shape? などの会話を毎週1回のペースで続けていても英語は話せるようにならないというのが持論である。幼児期の子供達の英語は毎日が効果的だと分かっていれば、あとはその環境を作り、意思のある方々に来てもらいたい、そんな思いが強くなってきた時に「幼稚園を作りたいんだけど、手伝ってくれる?」と数人のママたちに声かけをした。その時のママたちの行動力はものすごかった。よその園から安全基準などの規則的なものを引っ張り、カリキュラムは内容をバイリンガルに変えた。ランゲージの施設はまだ黒部の住居で、日本間を事務所にして幼稚部がスタートした。今の保育主任清水は開園時に応募してきてくれた。当時浅草の方に住んでいたのだが、ご主人を説得して平日は実家のある妙蓮寺で寝泊まりする
といってくれた。面接の時は紺のスーツをきてどちらかというと妙蓮寺のマダムといった品のある風貌だった。それが保育に入ると年間を通して素足で飛び回ってくれる。頼もしい存在である。
初年度の園児は2名。5月から1名年少々が増え3名でのスタートとなった。外国人講師を1名採用し、まるでお母さんが日本人で、お父さんがアメリカ人、そこに子供が3人といったふうでなんともアットホームなスタートだった。しかしバイリンガル幼稚園はまだまだ社会的なステータスがなく、翌年もあまり生徒が集まらなかった。生徒集めのこれといった決め手が無い中あっちこっちでビラまきやママ&ベイビークラス。無料イベントなどを開いていくうちに3年目に12名の園児さんがきてくれた。それもみなとみらい、本牧、センター南、日吉と違った地区からの入園だった。4年目も園児は増えた。スクールバスは3年目から導入した。園児用に改造したトヨタのハイエースで驚くほど高かったがボブのロゴをつけて仕上がってきた時はワクワクした。外国人講師も1人2人と増えたが本格的なバイリンガル教育を行うためのメソッドがなかった。そんな時現在英語の主任講師をしているThom SmithがLeader Board なるものを考えた。園児たちに12種類の仕事を与え、そこに外国人がつくか、日本人保育士がつくかで仕事のために使う言語を変えるという試みだった。これが今ILH school original method となって本校以外でも使われている。
 教育ビジネスは多種多様である。しかし根底にあるのは日本の子供達により良い未来を与えるという大きな社会的使命である。私はもしかしたらこの思いが人一倍強いかもしれない。日本の子供達を世界の勝ち組にしたいと常々考えている。なぜなら今のままでは海外での仕事はおろか、国内の仕事を得るのも難しい現実が必ずくる。先週プレスクールに来る外国人の保護者と話した。2歳児でも英語はマストだという。彼の本国では英語習得は毎日のメニューであって週に一度はあり得ないといっている。毎日習うためには学校に通うという選択肢がマストだともいう。外国人と話していると2歳児を扱うプレスクールを保育所とは考えていない。立派な学校と考えている。ランゲージを設立した当時このような考え方をする保護者は稀であった。特にプレスクールなどは一時預かりとして利用する人がほとんどだった。ところがこの数年で保護者のディマンドは変わり、それに応える形でランゲージも変化している。
 教育事業は100年続いて世に残ると言われている。ランゲージはまだ10歳である。あと90年、社会は変わり続けていく。しかし一つだけ変わりたく無いもの、それは人間が人間を教育し、人間は機会も教育できるということである。これから教育機関にもAIが入り、デジタル化する中で、ロボットたちと共存しながら我々人間がリーダーシップをとる、ランゲージはそんな未来も見据えた教育機関であり続けたい。

ニューヨーク、コロナ禍のプロテクション

ニューヨークに住む2人の娘が悲鳴をあげた。コロナ禍で保育園が閉鎖し、ベビシッターは恐ろしくて家に入れることができない。仕事は全て家なので生後8ヶ月の赤ん坊がいては立ったり座ったり集中できない。さらに長女は次男を妊娠中でHuge! Berryという英語が適切な表現が適切なほど、これ以上大きくはならないほどに膨れているという。ここは親が助けてあげるしかないと一大決心をした。しかしニューヨークのコロナ感染状況は全く芳しくなく、飛行機の機内も感染率の高い場所となっている。領事館のウエッブページには、ニューヨークでの入国審査に関して、日本でPCR検査を受け証明書を持参し、税関で受諾されたら自主隔離が4日になるとあった。そうこう溢れる情報に翻弄されていたらニューヨークから日本人の友がやってきた。話によると羽田でPCR検査を受け90分後陰性判定をもらい、後は全く何も聞かれないまま入国したという。ニューヨークはどうか?との質問に日本人には寛容じゃないかという。検査を受けたければ町中に検査所があって旅行者であっても無料で検査が受けられるという。ただし3時間以上は並ぶ。こんな話を聞いていたら考えすぎより行動あるのみかという気持ちになってきた。娘たちには高校生の時からほぼ独り立ちのような環境でのアメリカ生活。それで鍛えた強さのようなものがあって、あまり親を頼るということはないのだが、今回のコロナ禍は例外のようであった。
とは言え私も仕事がある。しかしこれもコロナで仕事をこなす方法が変わってきた。半分近くの社員は自宅で仕事をしている。では私も若い連中を見習ってニューヨークからリモートで仕事をすればいいと決心した。同時に今ニューヨークの街がどうなっているかも知りたかった。ニューヨークは東京以上に人でできている街である。そこから人が消えたら機能しないと言ってもいい。今までもこの街は何度もどん底に落とされている。1927年の大恐慌以来株の暴落は何度も経験したが、その度に強くなって這い上がってきた。しかし今回は状況が違う。株の暴落は街に失業者も溢れるが、新しいビジネスも生まれる、街には人が溢れビジネスチャンスをつかむのに必死で働く。ところがコロナは人々が街に出るのを許さない。これが決定的な違いである。実際にニューヨークの街を歩いているとサンクスギビングからクリスマスまでの大ショッピングシーズンに人の波がない。パパ&ママストアーと言われる個人商店も閉店のサインがそこここにみられる。増えた人といえば町中で見られるホームレス、それも仕事のない若者たちの姿である。今回のコロナでパソコンを使いこなせるグループとそうではない対面で仕事をする労働者のグループとの明暗である。
特にレストランビジネスとエンターテイメントビジネスへの打撃は大きく、ニューヨーク名物のブロードウェイミュージカルは2021年9月まで動かない。
ところでニューヨークは今年の始めに世界で最もコロナ感染者の多い街として有名になった。そのせいか町中には安全を守るためのメッセージがあらゆるところに見られる。地下鉄やバスなどの公共機関ではマスクキャラのデジタルポスターがわかりやすく、また子供達にも馴染みやすく数カ国語で登場する。スマイルマークのような顔にマスクをつけていて、マスクのダメなかけ方や、代用品のかけ方、また子供がマスクをかけたがらない時の対応など、見ていても楽しいメッセージが飛び出す。どの店舗にもソーシャルディスタンスのマークが色とりどりのスティッカーで貼られていて、コロナ禍でも楽しく安全確保をしましょうという姿勢が見られるところは日本と違う。今日もブルックリンに向かう地下鉄で隣に座っていた黒人女性のマスクはかなり激しい光のフェイクダイヤモンドで散りばめられていた。おまけに髪はドブロンドでつけまつげは3センチ以上の迫力。これをヒョウ柄のジャケットとヒョウ柄のパンツ、靴もヒョウ柄で決めて私はコロナを寄せ付けませんというメッセージを感じた。
ニューヨークの公立小学校は今日12月7日からやっと再開した。現地で日本人親子数名と話す機会があった。ママたちによると、日本人の子供達にはオンラインクラスについていくのが困難だったり、親が英語で説明される英語での設定方法がわからなかったりとコロナ禍での海外生活の難しさを実感したという。
現在公園やミュージアムは開いているが、事前予約を取ったり、公園での子供達同士の接触に神経を使ったりと日常は簡単ではないと理解した。ただ子供達は公共衛生のロゴや街のあらゆるところに貼ってあるディスタンスマークなどを良く理解していて、コロナと共存している強さも垣間見た。
イギリスでは8日からワクチン接種が開始されるという。アメリカでも今月中には開始のニュースが流れると期待されている。しかし一方でニューヨークに住む人々は1月が正念場だともいう。今年3月に起きたニューヨークでの大規模感染の教訓から、人々はワクチンよりも自分や家族をいかに守るかに日々奮闘している。

コミュニケーション能力




 仕事がえりにふらっと回転すしに入った。川崎で認可園新設のために住民説明会を行った。合同面談3回候補地住民との個別面談10回目でやっと合意らしき決着がついた。そのせいか無性にお腹がすいてきた。女性お一人様文化満開だが新型コロナ蔓延の時期にあってさぞかしお客も少ないと思ったら、席はほとんど埋まっていた。席に着くといきなりプラスティックの仕切板が現れた。ソーシャルディスタンスを保つためには仕方ないのだろうが、隣でおじさん二人が大声で話している。効果0を感ぜずにはいられないが文句を言うわけにもいかないので、さて、今宵は何を食べようかとカウンターを見回した。ところが今までの回転すしとはちょっと雰囲気が違う。一体何が違うのかとあたりを見回して見ると、人の顔が見えない。声が聞こえない。響くのは板前さんの”らっしゃい!”” ”毎度!” ”大トロご注文いただきました!” くらいである。回転すし屋が静かだと回ってくるお寿司も心なしか寂しそうである。などと思っていたらウエイトレスが来て「お客様、今日は新型コロナの入荷が、アっ、いえ、その新鮮なイワシが」とびっくりするようなことを言う。10分後には板前さんが「薄焼き、じゃなかった厚焼が上がりました!」と叫ぶ。お客があまり静かなのでわざと間違えているのかと思うほどだが、それにしても活気がない。コロナなので口頭での注文はお控えくださいと、紙とペンが置いてありオーダーを書き込む。今時よくあるipadは置いていなかっただけ救われた気がした。

 それにしてもコロナによって人間社会から口頭でのコミュニケーション能力を失わせていく一種のプロバガンダが蔓延している。回転すしの例もその一つだと思う。回転すしは大阪で立ち食い寿司屋を経営していたオーナーが、アサヒビール工場を見学した際に閃いたアイデアを実践したものだ。しかし無言でスタートしたわけではなく、カウンター内の板前さんとワイワイ言いながらこのネタはどうだの、これは旬だの、次は何のネタを流すだのと活気があったそうである。しかしコロナは食事中に会話することを禁じてしまった。大声で注文もできない。人々は携帯を見ながら黙々と飲んで食べる。こんな光景は寿司屋だけでなく多くの店のカウンター席で見ることができる。私はよく外国人を連れて回転すし屋に行った。目的は日本語の練習である。「すみません、注文お願いします。」から寿司ネタの単語に至るまで日本語学習にはもってこいの場所であった。

またそこから生まれる板前と外国人のコミュニケーションが面白く、友達関係にまで発展することもあった。それこそがコミュニケーションが作る人間社会の繋がりなのだが。言葉なしでも生きていける社会への危機感を強く感じるこの頃である。

Child Abuse




 虐待のことを英語ではill-treatmentとも言う。新型コロナの終わりが見えない中、子育てにイライラを感じたり、些細なことで子供を怒鳴ってしまったり、時には手を上げてしまったりといった自己反省を聞くことがよくある。話すだけでも気が楽になったというのだが、家庭での夫婦の育児協力体制や、ストレスの抜き方、自己コントロールの方法などあらゆる方面から対策を考える必要がある。

私自身も子育て真っ最中の頃、長女10歳、次女8歳、長男6歳、次男4歳、三女3ヶ月といった黒部保育園?みたいな状況の中、平常な精神が保てず、必要以上に子供を叱ったり、子供達の前で不必要な夫婦喧嘩をしたり、泣いてみたりという経験があった。5人も子供がいるとこうなってもしょうがないと母に言ったら、「無責任に子供を産むからそうなるのよ」と言われた。アメリカでは子供への虐待に対する社会的責任は日本より重い。また一般の人々も子供を守るのは社会という意識が高い。

ある日ショッピングモールで次女がギャン泣きを始めどうにもならなくなった。私は次女の性格からなだめても聞かないと知っていたのでしばらくそのままほっておいた。ところが突然中年の婦人が現れ、「あなたが今この子にしている行為がわかっているの?」と聞かれた。答えるすきもなく「子供は泣いて親に何かを訴えているのだから、それを無視するのは虐待よ。」ときつく諭された。私も初めて他人から受けた注意でショックを受けた。2回目は家族でスキーに行った時、キャビンで長男が悪態をつき、御免なさいを言わなかったのでしばらく外に立っていなさいと5分ほどテラスに立たせておいた。30分ほどするとレインジャーが現れ、「今8歳ぐらいの男の子が外に出されていると通報があったがお前のところか。」と事情聴取にやってきた。私も主人もびっくりし、悪い子だったので罰則として外に立たせたと行ったら、それは児童虐待になるので注意するようにとのことだった。こんなことがあってアメリカでは社会全体が子供達を守っているという意識が私の中でも高まった。

幼児虐待は親の元だけではない。近年ネット上にも保育園など育児施設における幼児虐待が後を絶たない。その背景には保育士の不足、そこから起こる経験値の浅い保育士集団による組織の不成熟、経営者の組織監視への怠慢などが上げられる。残念なのは施設で幼児虐待が行われていても、保護者にはなかなか分かりにくい。特に精神的虐待は分かりにくい。私の息子も幼い時にADHDがありやれ行動が遅い、スローだ、頭が悪いと噂されることが多かった。私の選択はまずその施設から脱出すること、専門医に相談することと、適切な環境を選択しその子の可能性を伸ばすことをした。もちろん多くの方々のアドバイスや相談を受けてのことである。

まだまだ暑い日が続き、コロナも続き、子育ても続く、長い人生とはいっても毎日を悩まずにきたい。考えすぎず他人に相談し、また夫婦間の会話も少なくなっている時でも思い切って夫婦で子育てのより良いあり方をビールを飲みながらでも話し合うことである。ビールは憂さ晴らしに飲むと後味が悪いが、建設的な話の後の一杯は美味しいはずである。

 

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