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ILH代表黒部のブログ

黒部家の教育回顧録

黒部家の教育回顧録
お盆休みが明け夏休みも後半戦に入ってきた。ランゲージのサマーキャンプも週明けからどっと人数が増え、いつも通りの賑やかさが戻ってきた。ママには後2週間の辛抱、公立の小学校はは25日からスタートするとか、逆にお盆休みの帰省で忙しかったファミリーは、この1週間を使って子供とじっくり向き合う時間を作ってほしいと思う。
さて、前回の話の中にフランス人のビビアンが出てきた。彼女はフォアグラで有名なフランスの南西部ペリゴール地方の出身で、お祖母さんはこのフォアグラ作りの名人だった。お祖父さんもトリフィユ探しの名人で、その鼻の良さはナショナルジェオグラフィックスにも取り上げられ大きな顔写真が載った。ビビアンがNYに来たのはフランス国鉄に勤めるご主人の仕事の関係だった。マンハッタンのイースト72丁目の高級アパートに社宅があり、セントラルパークは目の前にあった。当時私達はクイーンズというマンハッタンから地下鉄で30分もかかる郊外に住んでいたので、こどもが生まれてからというもの、ビビのアパートは私の子育てにはなくてはならない場所になっていた。おまけにビビが同じビルに子供好きの隣人を見つけてくれて、ベビーシッターをよくお願いした。この隣人もフランス人だった。兎に角フランス人というのは必要最小限の英語力しか話さない。相手もフランス語が話せて当たり前だと思っている。ベイビーにも一緒でひたすらフランス語で子守をする。生後1ヶ月からフランス語を叩き込まれると、当然かもしれないが小学校の頃いはふつうにフランス語が話せていた。
長女は小学校4年生までUNIS(United Nations International School)に通っていた。国連職員の子弟が多く通っていたが、別に国連直結の学校ではない。ただプログラムは非常にインターナショナルで、フランス語、中国語などの国連公用語はキンダガーデンの授業でも教えられていた。音楽の先生もアフリカ出身の非常にリズム感のいい先生で、世界中のあらゆるジャンルの音楽を子供達に教えていて、ニューヨークという場所柄、時には著名なアーティストもゲストであらわれたりしていた。私がパフォーミングアーツを取り入れた授業に出会ったのもここUNISだった。ただ世界中から人種の違う子供達が集まっているということは、その保護者も非常にインターナショナルな集まりだった。夫婦うで国籍が違うのは当たり前ぐらいな話で、おじいちゃん、おばあちゃんの出身国も違ったりする。学年末に行われるポットラックパティーは、まるでインターナショナルフッドフェアーのようだった。
しかしマンハッタンに数ある私立学校の中でのUNISのランクは決して高くなかった。理由は英語力だった。世界中から子供達が集まっているので無理もないことだが、英語カリキュラムそのものが弱いという指摘もあった。低学年はまだしも、高校のSAT(Scholastic Assesement Test)という大学能力評価試験の総合スコアーが低かった。日本では留学というとTOEFLが一般だが、アメリカの大学に入りたかったらまずはSATスコアーが優先する。ハーバード大学を目指すなら2400点はまず常識とされる。
(続く。次回はSATに関しては詳しくお話しします。)

黒部さん家の教育回顧録

黒部さん家の教育回顧録
前回のお話は、ニューヨークでフランス人の友人ができたこと。ある事件をきっかけに仲良しになったことを話した。今回はその事件がなんだったかをお話する。
公共スイミングプールはマンハッタンのど真ん中にあった。が、泥棒はどこでも出現する。公共プールの更衣室にはロッカーがある。が、鍵がない。ので鍵を持参するのだが、こんなものを開けるのはプロの泥棒なら朝飯前である。ただ被害にあったのは主人たちの方で、ビビアンのご主人は腕時計を取られてしまった。しかしこんな被害にあいながらもデニスと私の主人が大声で笑いながら更衣室から出てきた。なぜかというと、更衣室にはもう一人の男性がいて、彼は下着から何から着るものを全部取られたとかで、まだ更衣室で震えているという。なんで助けないのか?とも思ったが、映画のようなことが当たり前に起こるのがニューヨークで、それを楽しむのがニューヨーカーらしい。私たちは映画でも見に行った帰り道のような気分になり、夕食を共にした。これが気かっけになって私たち夫婦は急速に接近した。その夏には彼らの実家に招待され、イル・ド・フランス(フランスの田舎)を満喫した。
話を教育事情に戻す。ビビアンと私たちが通っていた英会話学校のことは前回話したが、ビビアンも私もお喋りで、好奇心旺盛なのが会話上達につながったかと思っている。また友達もよく作くり、お互いの友達を紹介しあった。海外で英語を学ぶ最大のキーはいかに外国人と親しくなるかである。どうやったら親しくなれるのかは、第一に向こうから声をかけてくれると思わないことである。自ら声をかけない限り道は開けないとはこのことである。私には苦い経験がある。ニューヨークで生活を始めて間もなく、主人の上司であるイギリス人の家に招待された。20人ほどがワイワイと飲みながら話をしている。私はというと全く怖気付いてしまい壁の花になりきっていた。イギリス人はおつまみというものに興味がないのか、食事を待つこと2時間あまり、ピーナツだけでしのぐとなると、誰とも話さずにいるのは地獄の沙汰である。この経験を気かっけに、いかにしたら外国人の会話に切り込んでいけるかが私の課題となった。簡単なことだが、”Hello!”という勇気がものをいう。あとはこの外国人と英会話の練習をしていると思えば、多少へんてこりんなセンテンスが出ても気にならないというわけである。日本人は外国人と話す時にメンツを気にする人が多いようだが、相手を対等と思わず無料英会話の教師と思えばどうってことないのだが。
ところでビビアンと黒部家の教育事情と何が関係しているの?という質問が出てきそうであるが、幼児期の外国人との異言語接近がいかに子供の将来に影響を受けるかである。その代表例が長女だった。ビビアンと出会っていなかったらソルボンヌ大学に留学することはなかったと思っている。(つづく)

早期英語教育を専門家はどう考える。

早期英語教育を専門家はどう考える。
5月31日の朝日新聞の紙面で、英語教育は早いほどいいの?という特集が大きく組まれていた。実はこの論争明治時代にさかのぼるという。ご存知の方もいると思うが、明治時代一部の小学校では英語が教えられていた。とうの昔に亡くなった私の祖父も英語が話せた。僧侶であった祖父は、寺に入ってきた外国人の押し売りを英語で丁重に断ったという話しも聞いた。戦前は海軍などが非常にスキルの高い英語教育をしていた時代もあるが、どれもこれも一過性で、さらに大戦後は高校大学の進学者の急増とともに、いわゆる受験英語が定着し、これが英語を話せない日本人製造の主原因にもなってしまった。しかし実業の世界では英語が話せないとグローバルな世界とは戦えないということから、経団連が中心となって小学校からの英語教育を提言した。なのだが。。。2015年の今となっても英語教育の大改革は行われていない。文科省は2020年から外国語活動を小3からに早めると言っているが、私は手ぬるいと思っている。なぜならお隣の中国や韓国の英語教育授業数は日本人の2倍、内容も聞く、話す、読む
書くの4技能をお教えている。英国の文化交流機関British councileも日本へのメッセージに、東南アジアでは英語はグローバル社会を生き抜くために不可欠な能力。国家を挙げて英語習得に取り組む姿勢が濃厚だが、日本ではそれが確立されていないとも言っている。
元上智大学外国語学部の学部長の吉田 研作氏は、私も現役時代にお世話になった。言語学の大家でもある吉田氏は、言語学を遊びながら体験として覚える能力は幼児期が一番高く、その後に知識として学べばすんなり身につくと言っていた。吉田氏が文部科学省の英語教育審議会の座長を務めたときにこの話してを聞き、私はランゲージ幼稚部を立ち上げようときめた。NHKでおなじみの鳥飼 玖美子氏は、今の日本のシステムでは、英語嫌いの子が増え、まして英語が教科になると、教え方から教材まで作り直さなければならず、人材育成が全く追いつかない状態だという。英語教育の早期化の背景には財界の強い要望があり、2012年代に出したグローバル人材育成戦略には、外国人で闘える人材を育てたいという強い期望があるが、鳥飼氏は真のグローバル人材とは相手と折り合いをつけ、異文化を理解する力があってこそ世界で活躍できる人材だと言いきる。特に中学時代の英語教育は力を入れるべきだと言っている。英語教育のオピニオンリーダーでもある両氏、早期英語教育に関しては異なった意見を持っているが、アジア諸国から今以上にたくさんの若者が仕事を求めて日本人のやってくるとき、日本人の若者は本当に戦っていけるのかということを心配している。中学まで待って英語教育を始めるのもいいかもしれない。しかしそこには受験、部活、習い事、交友関係などが、英語学習だけに集中できない環境を作り出すことは明らかである。であるなら、幼児期であると私は考える。2歳の子供が中学になるまでには10年という年月があるのだから。

黒部さん家の教育回顧録

黒部さん家の教育回顧録
5月も明日で終わろうとしている、ので急いで5月のブログを書いている。
5月の初旬バンクーバーに行ってきた。以前我が家でホームステイしていたカナダ人留学生の結婚式に招待された。奥さんになった女性がたまたま主人の国連勤務時代の同僚の姪御さんで、我が家にもよく遊びに来ていた。アンソニーという中国系カナダ人の青年は、カナダの名門校ブリティッシュコロンビア大学から上智大学に留学生していた。経済学を学んでいたと思っていたら、歯科医の母親から医者になれと言われ、素直にアイルランドの医学部に入った。6年をアイルランドで学び、今年めでたく医者になった。それにしても母親に医者になれと言われ、その願いを果たしたというのだから、凄い息子もそうなら凄い母親である。なぜなら6年間にかかる教育費、海外での生活費など、考えただけで気が遠くなる。
結婚式はバンクーバーのダウンタウンから車で15分ほとのところにあるリッチモンドという中国人が多く住む地区で行われた。この地域は中国バブルの真っ最中である。走る車はベンツ、BMW、レキサスで、それも大型車ばかり。ガソリンコストは日本とほぼ同じなので、あの大きさを満タンにしようと思ったら大変な額になる。まして消費税は12%に近い。車だけではない。レストランはどこもいっぱい。話しによるとここの住人は外食が殆どで、どんなへっぽこなレストランでも客が入るという。ホテルの近くにあるショッピングモールには日本のダイソーが入っていた。ここも大変な賑わいで品物は日本より充実している。
結婚式には250人のどのゲストが招待されていた。殆どが中国系の人たちだったが、明らかにリッチ層とわかる身なりで、カナダ中国人社会の階級格差を垣間見た。ところでこの式の祝宴はノンアルだった。テーブルにはシャンペングラスが置かれていたが、配られたのはなんとアップルサイダー、私は甘いソフトドリンクが苦手なので、May I have a glass of wine?と聞くと
Oh, Madame, I don’t think we serve any wine this evening.と言われびっくり。But we have some tea if you like?と言いてきたのでthen do you have beer?と聞いたらwe do not serve any alcoholと返された。なので乾杯はアップルジュース、そして食事の前にはお祈りを捧げるというクリスチャン方式だった。ちょっと戸惑いはしたが結婚式とその宴に感謝をささげるとという内容は納得できた。
それにしてもここにいる中国人達の祖先は大変な思いをしてカナダに移住して来たわけだが、日本人移民の多いカナダでこのような街、つまり日本人タウンがないのは何故なのだろうかと考えた。ここの住人をみている限り同じ民族、少なくともアジア人同士が結ばれ家族を構成していく。それが何代にも渡って受け継がれいまに至っている。しかし日本人が一つの街を形成するような人口を外国で作って今に至っているというところが少ない。街はあるにしても小さいし、こんなにバブル景気はない。そんな疑問を地元の日本人に聞いてみたところで、日本人は泳ぐのが下手くそだという。例えば中国人は親戚を頼ってカナダに来ると本国にお金があっても、カナダでは仕事がないということで生活保護を申請するという。これを元手に不動産投資をしたりしている人たちもいるという。あきれるような話してだが、日本人に必要なのは、なりふり構わないアグレッシブさだという。海外で生きるためには侍の美学は通用しない。まずはどうしてここで成功するかを考えないとまっとうな暮らしはできないという。確かにニューヨークでも、サンフランシスコでも大きな中華街はあっても、それに匹敵するような日本人街はない。サンフランシスコの日本街は比較的大きいが中華街に比べるとひっそりとしている。なんとなく日本人はカッコをつけたがるのか、あるいは常に親方日の丸を意識しているのか。そんなことを考えてこのカナダ人留学生に意見を聞いてみた。いわく、First of all, you have good quality of food, safety street, on time train, and beautiful nature, so why you have to move to other country to go through all sort of hardship, というのである。また外国人にとって日々変化する東京の街がなんともおもしろいという。つまり、こんなに恵まれている街を離れてわざわざ苦労することもないだろうにという意見である。確かに言えているかもしれない、しかしこれは外国から来た人たちにとってはそうかもしれない。でも日本人にとって、とくに若者達がこの環境に甘んじると日本は昼行灯のような国になってしまわないかと不安を感じるのは私だけだろうか。日本人も海外でバブルタウンを作れるようでっかい考えてを持った大物が現れないかと期待をしているのだが

黒部さん家の教育回顧録2015.April

2015年度の入園式も無事に終わり、新しい園児さんたちが制服に着られながら(大きすぎて着ているよりは着られている感じです)登園を始めました。保育士、外国人講師達そしてバックオフィスも気持ち新たに仕事を初めています。今年は保育、英語学習共々新しいメソッドが加わり、より時間を効果的に使い、中身の濃い保育や学習にしようというプランが動き始めています。3月はこのプランの作成のため各保育士、外国人講師とミーティングの連続でしたが、ランゲージ?ハウスの幼稚部理念である自分力、語学力、日本人力がバランスよくカリキュラムに反映されるようにするためにはなんども話し合い、確認し合い、そして実行する姿勢ががなによりも大切だと考えます。すべてのことは計画してやってみなくてはわからない、plan, do, checkを基本にスタッフ一同頑張って新年度に向かいます。

ということでしばらくお休みしていたブログを再開します。
前回出て来たマンハッタンにある英会話学校のところからお話を始めます。
この学校はいわゆるNPOが運営している外国人のための英会話学校で、先生達もほとんどがボランティア講師だった。
場所が国連から近い1番街の52丁目にあったせいか、各国の領事夫人、そのベビーシッター、駐在員妻、国連職員妻などが多く、後はロシアからのアーティストだったり、ブラジルからのダンサーだったりとまさにニューヨークが人種の坩堝であることを垣間みるには最高の学校だった。そのころの私の英語といったらひどいもので、まず聞き取りができない。というのに悪い癖で、相手の言っていることがさも分かったかのようにうなずいてしまう。なので会話は一方的に続くのだった。相手が聞いていようといまいと話を続ける外国人は多く、リスニングの練習にはなる、が、相手も英語ができない人達でそれぞれの国の訛があるものだから、半分理解できれば大満足というところだろう。例えばスペイン語訛の英語でscheduleを発音するとエスケデュールとなる。これを理解するのには1ヶ月ほどかかるし、オーストラリア人がbabyと発音するとバイビーになる。No8もナンバーアイトである。日本人もWorkとwalkが非常に紛らわしのでよく外国人から指摘を受けるが、みな本気になって直そうともしないので、この他民族の中での英会話教室のおかげで、今では殆どの国の訛をまねできるほどになった。
さて、当時子供もいない自由主婦でふらふらしていた時期だったので、この学校には毎日通った。語学学習は継続なりを地でいったのだ。というと聞こえはいいが、クイーンズに住んでいて友達もいないし、マンハッタンに出ていくのは毎日でも苦にならなかった。学校には私のような常連が何人かいてすぐ友達になった。中には外交官夫人も何人かいた。オーストリア、ギリシャ、韓国の婦人達が常連だった。外交官夫人といっても英会話が不得意なのがたくさんいて、私のもつ外交官夫人のイメージが一掃された。
私がここで出会った最高の人はフランス人のビビアンだった。フランス南西部、フォアグラで有名なペリゴール地方から来ていた。ご主人はフランス国鉄のコンピュータ技師である。ビビアンの話す英語もかなりフランス語アクセントが強く、また凄い早口だったのでよっぽど集中して聞かないと話の内容がわからない。でも書かせると非常に分かりやすい英語なので、やはりラテン語は日本語より英語に近いということを理解した。ところでビビアンと本当に友達になった理由は英会話学校ではなく、マンハッタンにある公共スイミングプールに行ったことから始まった。(つづく)

黒部さん家の教育回顧録 

黒部さん家の教育回顧録

ニューヨークに引っ越しをする前に必死で英会話教室に通ったが、100%ものにならなかった。というよりお金の無駄使いだった。大学は外国語学部英語科の卒業証書を持っているが、この時点で英会話は苦手だった。この学部には帰国子女と、有名女子校から来ている生徒が多すぎ、私のように公立高校から来た者はクラスに二人しかいなかった。優秀なお嬢様たちは基本の基ができているので、朝から晩まで英語のみという授業にも嫌な顔一つせずに出席していた。私はというと授業がおもしろくなかったのと、その頃夢中になっていたヨット部の活動が忙しかったという2つの理由で、あまり学校には行かなかった。御陰で試験間際になると優秀な友達にお願いして隣に座ってもらった。カンニングはできなかったが、声を出して答えを言ってもらっていた。今考えるとよくあんなことができたかと自分でもこのセットアップに感心している。ただエッセイなどの文章は比較的得意で、これで卒業できたようなものだと思っている。
ということで、ニューヨークに移り住んでから英会話に一層の努力をしようと心に決めていたが、基礎が足りないのと実践力がないのが痛かった。ニューヨークに付いた翌日、主人のボスであるイギリス人からディナーパティーに誘われた。貴族の血をひく彼は180cmの長身でクイーンズイングリッシュを話す。それだけでもかなりの圧迫感があるが、おまけにロビンという奥さんが機関銃のように話す。90%は内容がわからない。10%はlovely, I beg your pardon,
thank you very much indeedぐらいである。ディナーには他の友人も招かれていて話しかけてくるが、私はただうなずくだけであった。ここでおつまみでもあれば、それを食べながら会話を聞き流すということもできるのだが、イギリス人はケチなのか、おつまみはピーナッツだけで、夜の8時を過ぎてもメインの皿が出てこない、やっと9時になって大きなローストハムが出て来たが、それぞれにそのごちそうがいかに素晴らしいかを言っている。私はお腹が好きすぎていて英語が出てこない、もう目がまわりそうな状態だった。
この日をきっかけに主人も私の英語力は大学の名前に比例しないと分かったらしく、国連外交団の奥様が通う英会話学校を見つけてくれた。(つづく)

黒部さん家の教育回顧録 2015

前回のお話は子供達の名付け親のマーグレットとプールで出会い、初めてのデートに誘われたのがニューヨーク自然史博物館だった。

マーグレットはいきなり私を地下の暗い展示場に連れっていった。私としては鉱石などには全く興味がなかった。それよりも文化人類展示場にあるアメリカンインディアンのコスチュームやジュエリーを見たかった。でもマーグレットはえらく興奮していた、” you will like it”と自信満々だった。展示場にはジュエリーも展示してあり、エリザベス女王の王冠とかがあり、だんだん私にも興味が持てるようになってきた。そこへドーン!と登場したのがそのダイヤモンドだった。確かに大きい、ホープダイヤモンドと言われていて厚さが12mmもある。ブルーがかった怪しげな色をしたダイヤモンドで、持ち主もいろいろと変わったらしい。しかしアメリカ人のダイヤモンド好きは尋常ではない。マーグレットはなかなかその場を離れない。私の頭はすでにアメリカンインディアン、しかしマーグレットはダイヤモンドに釘付けだった。悲しいかなその頃は英語で自分の意志を自由に語れないので、しばらく私はダイヤモンドを見つめるしかなかった。
 自然史博物館で2時間ほどを過ごした後、マーグレットがどうしても連れて行きたいところがあるという。どこ?と聞いてもイーストサイドというだけで答えてくれない。当時私はとっても暇だったので、どにでもお供しますということで付いていった。
 マーグレットが連れて行ってくれた先はThe Brearley schoolという女子校だった。1909年に創設された学校は、ニューヨークで一番を争う進学校で、毎年多くの女子をハーバードなどのアイビーリーグに送っていた。ニューヨークのエスタブリッシュメント達は女の子が産まれたらブリアリーにを合い言葉にするぐらいその存在は今も大きい。ただ私の方は妊娠はおろか子供を作ることさえ考えていなかたので、なぜマーグレットが私をこの学校に連れて行ってくれたのかがわかるのはそれから8年近くたってからだった。そして自分の娘がそこの卒業生だということがわかったのもそれから2年後だった。
イーストの83丁目にある学校から彼女の住む41丁目までをバスで乗り継ぎ、初めてチューダーシティーなるアパートにお邪魔した。自分たちの住むところとはおよそ比べ物にならない、重厚でどっしりとした内装の建物だった。そこで出会ったのが自称アーティストのダイアナというマーグレットの長女だった。ちょっと年増に見えたが明らかにニューヨークのお嬢様といった風合いが印層的だった。おまけに英語が美しすぎてよく分からない。なんというのか品が良すぎてついていけない。これがニューヨークの上流家庭だとしたら、私が英語を真剣に習おうと考え始めた時期だった。

インド教育事情

今回は「黒部さん家の教育回顧録」を一回お休みさせていただき、インド最新教育事情をお届けしたいと思います。

 

年末から新年にかけてインドに行ってきた。目的は本場でボリウッドダンスのレッスンを受ける事と、先生を探す事、そして以前に先生をしてもらったインド人の先生に赤ちゃんが産まれたので、そのお祝いを持ってインドまで出かけた。場所はデリーから車で6時間かかるパンジャブ州のチャンディガールである。私たちがインド人のトレードマークのように思っているターバンを頭に巻いたインド人が多い街でもある。彼らはシーク教徒で、元来体が大きく健常なので、軍隊やポリスは殆どがシーク教徒達である。一見帽子のように見えるターバンは、長い布を巻き付けて納める。朝寝坊をして遅刻しそうでも、である。

 

さて、インドの教育事情である。現在インドは新しい首相Mottiのリーダーシップで国民の結託が強く、これが経済を力強く牽引している。アメリカでタクシーに乗るとオバマ大統領の悪口が殆どであるが、インドでは” We love Motti”

で支持率が高い。なぜ?と聞くと、即断即実行なのだそうだ。ただ支持率の高い大統領は暗殺の危険度も高いので、みな口々に”He is good until he died”などと言っている。首相暗殺事件の多いインドを身近に感じる。

 

そんなニューリーダ率いるインドであるが、相変わらずストリートキッズが多い。キッズだけではない、ストリートベイビーもいる。ようするに物乞いである。小さいのは2歳ぐらいの子が物乞いにくる。が、ここで驚くべきは彼らのENGLISHである。2歳児ぐらいの子が” give me money”と英語で言ってくる。

そこへ3歳児ぐらいの兄らしき子が” we are hungry”とこれまた流暢な英語で言ってくる。こちらが黙っていると” please give me some money、I have no father”と言ってくる。小学生ぐらいの子になると” You have money but I don’t have money and no house. I want to sleep tonight, please give me some money”とかなり長いセンテンスになってくる。英語塾どころか学校へも行っていない子が英語を話している姿は強烈だ。つまりこの英語が彼らのライフラインにもなる。英語が話せなければ食べて行けない現実を2歳のころから叩き込まれるのである。日本人も終戦直後、必要に迫られて英語を勉強した。もっとさかのぼると幕末に生きた人たちも開国と同時に、海外の文化を知ろうと必死で勉強した。ところが今、その必死になる物が見つからない。どうして英語が話せた方がいいの?英語が話せるといい事があるの?子供達の本音である。親にとっては自らの経験や体験から英語を話せるメリットが考えられるのだが、それにしても話せないと生きていけないなどとは思いもしない。

 

インドでは英語が準公用語となっている。街にはインターナショナルスクールの看板が所狭しとならんでいる。日本と同じで、看板のモデルとなる子供達は白人である。しかし実際にはインターナショナルスクールに通う子供達のモラルが問題になっているという。インド文化を否定するわけではないが、より以上にアメリカ文化、ヨーロッパ文化に啓蒙する。サリーを捨てジーンズになる。マサラドーサ(カレー味のポテトが入ったクレープ)よりもマクドナルドを選ぶ。ナマステのご挨拶をするよりHiを連発する。年上を尊ばない。物を大切にしない。買いあさる。などなど、これはインドで読んだ新聞に出ていた記事だが、インド人の親達は心配を始めている。

 

日本に帰国した日にあわてて神社に初詣にいった。着物姿こそ無かったが、子供達が「あけましておめでとうございます。」という声にほっとした。翌日ランゲージ?ハウスの幼稚部が始まった。インドのインターナショナルスクールの記事を読んでランゲージの園児たちのことが気になり、朝玄関に立って園児達を待った。「あけましておめでとうございます。」というと、みなゆっくりと元気な声で「あけましておめでとうございます。」とかえってきた。心の中でa

happy new yearといわない子供達にホットし、次の瞬間後ろから” See, Santa

came to my house !”という英語の声が聞こえた。新年早々バイリンガル幼稚園の醍醐味を感じていた。

黒部さん家の教育事情 2014/12/27

ブログ読者の皆様、2014年もランゲージ?ハウスを応援していただき本当にありがとうございました。2015年も皆さんの子育て、子供達の教育に役立つようなストリーを書いていきます。ご期待ください。

さて、次号でご紹介したGod motherのMargretおばさん、公営の冷たい温水プールで泳いでいた姿とは裏腹に、実は凄い資産家だったというお話から始まります。

ここのプールの水は緑色で入水するにはかなりの勇気が必要だ。だいたい普通の温水プールはさわやかな水色で、見た目にもふんわりと泳ぎたくなる色をしている。が、緑色となると話は別である。それも濃い緑色である。魔女の作るスープのような色をしている。それでも泳ぎたいと思った。ニューヨークに来てからの想像を絶する寒さに圧倒されてアパートから出る事すらおっくうになっていた。ところがある日主人が国連本部の近くにあるホテルの温水プールに連れて行ってくれた。そこには当時流行していた毛皮のコートの身を包んだニューヨークのマダムたちが、ブランチの前のひと泳ぎを楽しんでいる。こんな光景を日本では見た事がなかったので「わっ、これぞニューヨークだわ!」と思い込んだのがそもそもの間違、実際そんなホテルスポーツクラブの会員になるには最低でも月10万円は払わなくてはいけないし、そういうところでの泳ぎはあくまでもエレガントでなくてはいけないようだった。私はこの2つとも持ち合わせていなかった。つまり、この緑色のプールを選んだのはNo choice だったのだ。もしMargretが私より先に泳いでいなかったらたぶん緑色には縁がなかったかもしれない。
Margretと最初に話をしたのは更衣室だった。プールから上がり、もう体はアイスキューブのようになっていた。シャワーだけは温水が出てくれた。Thank god this is America!である。更衣室には私とMargretの二人だった。いきなり” where are you from ?”と尋ねてきた。そのころの私はいきなり英語で質問されるとパニクルぐらいに英語が下手だった。” I am from Japan”とか言ったかと思う。Margretは続けざまに” Your English is horrible, so this is my telephone number, you should call and visit me”とトイレットペーパーのような紙切れに
電話番号が書かれていた。紙が濡れているのと、本人がシャワーから出たばかりで濡れていたのとで、(ひょっとしたら気違いばあさんに捕まったかしら?)とも思ったが、Margretの目があまりにも純粋で奇麗だったので”Thank you, I will call you”と言ってしまった。それでも実際に電話をかけるまでには数週間を要した。当時はEmailのない時代。電話で英会話ということに抵抗を感じていた。日本人だからとかく構えてしまうのだ。私も例外ではない。でも冬のニューヨークを友達なしで過ごすのはあまりにも寂しすぎた。思い切って電話をした。
彼女との最初のデートはニューヨーク市自然博物館だった。Margretの提案だ
った。その日は雪でどんよりと曇った空ダッタ。自然史博物館はパークウエストの80丁目ぐらいにある世界でも屈指のNatural history museumである。
Margretは、私に世界で一番大きなダイヤモンドを見せたいと言った。

黒部さん家の教育回顧録 ゴッドマザーとの出会い。

黒部さん家の教育事情

次女の転校先はthe brearley schoolという女子校だった。もちろん次女が望んだわけでもなく、Horaceman が男女共学のトップ校なら、Brearleyは女子のトップ校だった。1884年にMr. Brearleyが”took the bloom from ladies”
(帚から女性たちを解放しよう。)というスローガンを掲げた。男性であるにも関わらず1800年代に女性を家事から解放し、兄弟と同等の教育を受けられる学校を作ろうというBrearley氏の考えは国の将来を見据えたものであった。

さて、なぜ私がこの学校を知る事ができたかというと、ちょっと話が長くなる。が、話の主人公がニューヨークの黒部家に非常に大きな影響を与えてくれた女性であるので紹介したい。
彼女の名前はMargret Cululli, マンハッタンのイースト42丁目にあるテューダーシティーという高級アパートに住んでいた。アイリッシュ系の彼女はでイタリア人の貿易商であるご主人との再婚で裕福な生活を手に入れた。その後ご主人が亡くなり、その遺産で悠々自適な生活を送っていた。とわかったのは知り合ってから数ヶ月してからだ。彼女と出会ったのは街の公共プールだった。ニューヨークの公共プールというとスポーツジムなみのものを想像するのだが、
当時ニューヨーク市の財政難から、ほぼ真水に近い水温と、多分頻繁には取り替えられない水の事情から、色が緑色で魔法使いの池で泳いでいるといっても不思議はなかった。そんな場所で彼女と出会った。
私がニューヨークに渡ったのは1月だった。この街の冬を甘くみていた。とにかく寒い。道を歩いていても10分もすると手足がガチガチにつめたくなるし、鼻はでるし、耳は凍り付く始末、ニューヨークの街を散策などというわけにはとてもいかなかった。かといってスポーツジムに通うにはお金がかかった。当時Manhattan racket clubというスポーツジムがあって、いわゆるキャリアウーマンたちがこぞって通っていた。私も「入りたい!」とそのジムの前を通るたびに思っていたが、入会費500ドルは無理だった。そこでイエローページと呼ばれる電話帳(当時はネット検索などない)で、公共のジム、それもプールつきのを探したらイースト54丁目に一件見つかった。それも無料。自分でロッカーの鍵だけを持参すればいい。よっしゃ!という気分で行ってみると黒人のお兄ちゃんが受付に立っていて何言ってるんだかわけがわからない。ニューヨーク人はとかく早口だが、これに黒人アクセントが加わると初心者には理解が難しい。たぶん水は冷たいよぐらいなことを言っていたのだろう。ジムの内部は薄暗く、スリやたかりが出て来ても不思議は無い雰囲気である。でもそのくらいでひるんでいてはプールまでたどり着けないと、勇気をもってロッカー室に入った。ロッカーといってもその半分はドアがなかったり、ノブが壊れていたりしていた。そして誰もいない。私は急いで着替えプールに向かった。
これでプールに人がいなかったらどうしよう!泳いでいる間に下着を盗まれたらどうしよう!プールでレイプされたらどうしよう!とろくな考えが浮かんでこない。よっぽど帰ろうかと思ったが、外の寒さを考えて思いとどまった。
プールには人がいた。1950年代を思わせる水着姿で泳いでいる女性がいた。
それも淡々と笑顔で泳いでいた。彼女がその後子供達の名付け親になるMrs. Margretである。(つづく)

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