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ILH代表黒部のブログ

黒部さん家の教育回顧録 行きたい学校に入る方法

Horace man schoolの教育レベルが高いことは前号でも述べた。娘は面接でどのくらい勉強が好きかと聞かれたらしい。
学校いわく、勉強しなければ深く考える事ができず、自分の話すことや、書く事をどう人に伝える事ができるかがうまく表現できない。これは学生時代のみならず、社会に出てから自分の意見や考え方、発見やアイディアをいかに人に伝えるかで人を成功に導くかどうかが決まる事もあるから、勉強が好きだと将来も必ず役立つスキルが身に付くと自信満々にいうのである。
 さて、長女は補欠リストに名を連ねていた。Horace man schoolには転入希望者が後をたたない。しかし退学者も多いので補欠リストにはいつも数名が名を連ねているらしい。この学校は高校まであるが、小中でも退学になることはよくある。勉強ができないというだけではなく、勉強が嫌いであればよそへ行ってくれというスタンスである。日本で小学校を退学になったら末代までの語りぐさになりそうだが、アメリカの社会では普通のことである。
 補欠という知らせを受けてから、友人に相談した。どうしても入りたかったら毎日電話をしろとのアドバイスを受けた。なんだかビジネス交渉のようなアプローチだが、補欠は100%入学の可能性が無い訳ではない。やるだけやってだめならしかたがない、そんな思いで学校に電話をかけた。
 ” Hi, this is Tara’s mother, I would like to know if any possibility that my daughter can get into your school?”
” Tara? so which one?”
” which one?”
” yeah, we have 5 Tara waiting on the list”
” Tara Kurobe that is my daughter’s name”
” Well, you should call us back later”
あっけらかんとしてしまうほど、意味の無い会話だったが、こちらも腹を決めて、毎日午後2時に必ず電話を入れる決意をした。とにかくあと4人のTaraには負けられない、こうなったら親の意地で攻めるしか無い。私は電話営業マンになったつもりで淡々と電話をかけ続けた。しかし2月末になっても最終結果は出てこなかった。
2月27日、その日は娘の誕生日だった。ニューヨークの2月はメチャメチャ寒く、雪空だった。
 ” Hello, this is Tara’s mother speaking”
” what’s up?”
ここで私はこういった。
 「実は今日娘の誕生日なので、プレゼントを考えていたのですが、もしあなたが娘の入学を許可してくれたら最大のプレゼントになるのですが。」
 「娘さんの名前は?(今太良の母親だと行ったはずなのにやっぱり聞いてない。)」
 「太良です。今日は彼女の誕生日です!」
 「OK, ちょっと待って、今確認します。」
  5分ほど待たされた後で、
 ” Congratulations! she gets in!”
なんと!合格した!お誕生日だといったら入れてくれた。言ってみるものである。親心が通じたのか「やった!」だった、が、後で冷静になって考えてみると、この補欠リストの信憑性はいかにである。もしお誕生日でなければ入れなかったのか、あるいは相手が私の電話に根負けしたか、いづれにしろ日本ではまず考えられないことであった。
晴れて合格が決まり、本人も見学や面接で出会った先生達の印象が良かったせいか、転校を快く受けているようだった。
さて、次は次女の番である。

黒部さん家の教育回顧録 転校

黒部さん家の教育回顧録 

アメリカの私立はおしなべて授業料がメチャメチャ高い。これは日本人の私だけではなく、アメリカ人全員が思っていることである。例えばニューヨークにあるコロンビア大学の学費は年間470万ほどかかる。ハーバード医学部などは700万以上もする。黒部家のように子供が5人もいるとニーズベースの奨学金制度(つまり子供が多いから教育費を捻出するのも大変というニーズから)があるが、殆どは国や州が貸し出す教育ローンにたよるしかない。実際私の子供達もニーズベースの奨学金プラス教育ローンで学費をまかなったので、いまだにその返済に追われている。
娘が大学に行っている頃、ある親が発起人となって授業料に関する学校側との公聴会を開いた。ある親はこう聞いてきた。「こんなに高い授業料を取るなら、せめてカフェテリアをもっと美味しくしてもらえないですか。娘はこの大学に入ってから寮の食事が不味くて文句ばかりです。親はこんなに高い授業料を払っていて娘に文句をいわれたんじゃやってられませんよ。」私はこの意見にまったく同感であった。
アメリカの私立学校の授業料が高い一番の理由は、施設及びスタッフなどもろもろにかかる保険料の高さだ。逆に先生達のサラリーは思いのほか低く、私立学校は公立より安月給なのには驚かされる。私立学校の先生になるには教育そのものに人生をかけるぐらいの勢いがないと勤まらない。
さて、国連学校のPeace and share教育に満足できずに、学校ハンティングを始めたのだが、流れはこんな感じである。まず希望校に電話をかける。転校したいと伝える。断られるところもあるが、日本人はマイノリティーの部類に入るので編入の可能性は高い。つまり各私立学校は有色人種を入学させなくてはいけないことになっていて、日本人もその枠に入る。条件は前の学校での成績がいいこと、面接で聞かれた事に対して的確に答えられる事である。そして親も。
長女は国連学校からマンハッタンの北部リバーデールという地区にあるHorace Man schoolへの転校プロジェクトを試みた。この学校は1887年にコロンビア大学の分校として創設され、現在ではハーバードにもっともおおくの生徒を送る全米高校の5位に入っている…というぐらいの受験校である。なぜこの学校を選んだかは簡単で、アイビーリーグに近い高校だったからだ。8大学からなるアイビーリーグは、ブラウン、コロンバイア、コーネル、ダートマス、ハーバード、プリンストン、ペンシルバニア、イエ−ルからなる東部有名校をさす。
私自身はアメリカの留学経験はもたないが、学生時代はプリンストン大学に本気で憧れ入りたいと思っていた。ホーレスマンはニューヨークの教育に超熱心なユダヤ人家庭の子弟が多く、また寄付金も中途半端ではないので、そのアカデミックなレベルのみならず施設も充実している。ただ殆どの生徒は同校付属の幼稚園から入ってくるので、各学年への編入は狭き門である。が、これを知ったのは娘の編入が決まってからで、それまでは無知の怖い門知らず、規定をクリアーすればだれでも入れると思っていた。試験はニューヨーク市で行われる共通一次のような試験で規定の成績をとることと面接である。この面接は個別ではなく、クラスに参加する形で行われる。
結果はというと補欠だった。(つづく)

黒部さん家の教育事情  2014/10/01

Peace and sharing, sharing and peace, これですべてが解決したら戦争など起こらない。たしかに分かち合いの心は平和につながるが、これで子供達の問題もすべてOKでは先生の手抜きというものだ。国連学校(UNIS) は国連関係や各国の外務省関係の子弟が多く来ているので、学校の理念としてのPeace and sharingがあるが、当時校長だったインド人女性が父母会でこれを言い始めると
インド瞑想の会に出席したような気持ちになった。
「Reading力が他校に比べて低いとの意見がありますが、担当教師はどのような指針で対応してますか。」
「 Peace and sharing, 勉強もお互いに分かち合えばかならず上達していきます。」
「 はあ?」てな具合である。アメリカの学校の父母会は夜7時頃から行われるのが常だったので、空腹もともなって、時には校長に嫌悪感を抱くことさえあった。つまり具体的に自分の学校の生徒をどうしたいなんてことは考えていないのである。
 あるとき友人と話しているとき私の心は動いた。
「 どうせ通わせるのなら一番の学校を選びなさい。」
私たちはアメリカの学校の授業料の高さを愚痴っていた。私立だと年間300万はくだらない、およそ普通に共稼ぎをしていても払いきれないような現実がある。黒部家は幸い5人という子供の数で、Needs base,つまり必要に迫られた学費補助ということで多少の奨学金が支給されていた。また国連がすべての職員の子弟に教育費の75%を援助してくれるプログラムがあった。今考えるとこの援助なしにはとても5人の子供達を私立学校に通わせる事はできなかった。この恩恵に甘んじていることもあって、とりあえすニューヨークで子供を私立学校に通わせられることに感謝していたが、すべての学費を自費でしはらっている友人の言葉には説得力がある。
「 あなたね、考えてもみてよ。校長以下子供をどうしたいなんて気持ちもなく、きれいごとばかり並べて、なんとなく親の喜ぶようなイベントばっかりやっている学校なんてろくなもんじゃないわ。」
なんだか国連学校のことを言われているような気がする。
「 まずはReadingにどれくらいの時間を裂いているか、算数を教える教師の技術はどれくらいか、見学に行ったときに教師と生徒が向き合っている姿がどれくらいあるか、クラスの中で大勢の子供が手を上げ”Why?と質問しているか。それに教師は丁寧に対応しているか。そしてWe love this schoolという雰囲気が全体にあるかを確認することね。学校探しは家探しより難しいわよ。」
ふーん、とうなってしまった。友人は続けた。
「 簡単選択はニューヨークでベストスクールと言われる学校を選ぶ事ね。」
と簡単に言われても当時私立学校情報に乏しかった私には学校の名前さえ浮かばなかった。友人がリストを作ってくれた。
男の子ならUpper westにあるCollegiate school, 女の子ならUpper EastにあるBrearley school, アイビーリーへの進学校ならBronxにあるHoraceman
school、そしてニューヨーク生粋の商売人の子弟が多い男子校ならBrowning schoolがそれだった。
で、あるなら、このベストと言われる学校にそれぞれの子供達を入れるという
知らぬが仏の無謀なプロジェクトが、ほぼ私の独断で始動し始めた。5番目の娘はまだ2歳だったので、このプロジェクトからは除外されたのだが。

黒部さん家の教育事情

” Back to School” このチラシが新聞と一緒んび送られてくるのは8月中旬、この時期はまだ実感としての新学期はないのでふんふんと内容には関心がない。8月下旬になると金持ち連中がサマーハウスから帰ってくるので街の人口も元に戻る。このころからやっと新学期を意識する。
 海外の新学期は9月から始まる。日本も一時東大が9月始まりに手を上げたが却下された。私の子育て経験からだと4月始まりが親にとってはうれしい。9月はまだ暑いし、夏休みに使いすぎたお金の心配もあり、生活のペースも元に戻らないまま新学期というのはきつい。特に大学一年生を抱える親にとっては、生活物資一式を車に積み込んで大学の寮まで送るというアメリカの伝統とも言うべき儀式は、飛行機で行けばいいのにと思うところも、わざわざ2〜3日かけての車での移動、その出費はかなり家計を逼迫させる。ただこの儀式の後、子供達は少しづつ親離れをしていくことを考えると、大学までの家族ドライブは貴重な思い出になる。
 5人の子供達の新学期はというと、ドタバタの茶番劇となる。日本のように初日は顔合わせだけというのはなく、いきなり授業が始まったりするから、準備に不備があったりすると、当日の朝はとんでもないことになる。まず健康診断証明書。これはホームドクターに書いてもらうのだが、保険適応せずで一人$100。
内容はというと聴診器でもしもしして、身長体重を計り、後は問診。これだけで$100とはぼられているとしか思えないのだが、この紙が無い限り進級も進学もできないことになっている。次は授業料支払い証明。アメリカの学校の授業料は一括払いか、タームごとの3期払い、月謝というシステムはない。9月はその第一期になる。私立は安くても年間250万はする。となると9月には80万以上のお金を用意しなければならない。で、これが上の3人に同時発生すると黒部家の家計は火の車となる。だったら公立に行けばといわれそうだが、公立と私立の教育の質はあきらかに異なる。特にマンハッタンに住む親ならピーナツバターサンドイッチが夕食になってもなんとか私立に通わせたいと思っている。私もその一人だった。実際主人の国連勤めで教育費の7割が援助されたので、後はおばあちゃんたちの世話になりながらなんとか切り抜けたが、納付期限を過ぎてしまう事も多々あり、差し押さえにはいたらないものの、明日中に納付がない場合は退学処分などというのはよくあった。今考えると3人のために250万近いお金を9月1日までに調達しなければならなかったのだから、まるで会社経営のようであった。
 5人の子供達、幼稚園は同じ園に通ったが、小学校からは4人とも(5人目は幼稚園)別々の学校に通わせた。というのは後日談で、上の二人は国連学校(UNIS)に通っていた。名前は国連だが、実は私立の学校で、たまたま国連関係の子弟が多く通っているのと、他の私立より若干授業料が安かったので通わせていた。
なぜか校長先生を筆頭にスタッフにはインド人が多く、保護者会で質問をしても答えはいつも”Peace and share”だったので狐につままれたような気分になることがほとんどだった。ある日校長に聞いた。「で、ミセスリベロ、あなたのお話だとこの学校では生徒のためにあらゆることができるとのお話ですが、逆にできないことを教えてください。」すると彼女は答えた。” We can do everything, peace and sharing” この後私は真剣に別の学校を探し始めた。(つづく)
 

拘束された日本人の英語力

日本人拘束と英語力

黒部さん家の教育事情の別記事として、拘束された時の英語力が生死を分けるかもしれないということについて話す。

内線中のシリアで日本人男性が過激派に拘束されたニュースが流れた。
映像の中で男性は過激派の質問にこう答えていた。

過激派:what is your name?
  男:My name is Yukawa
過激派:What are you doing here?
男:job, this is job
過激派:Why you carry a gun?
男: Job   ここで映像は切れる。

今日本政府はこの男性を救出するために外交交渉をしているが、運良く助かったら、この男性にはもう一度危険回避のための英語を勉強しなおしてもらいたい。なぜなら今回彼の使った英語は、相手に誤解をあたえ、不信感を与えるからだ。
まず、JOBという言葉。これには多くの意味がある。男性は自分が写真家であることを指してJOBといっているのだけれど、ここはtouristといって逃れるべきだった。私も出張の際はtouristを使う。もちろん長期滞在の場合は別だが、
1週間ほどの出張であればtouristが安全圏である。Businessになると通関の時に質問攻めにあい、答えられなければいつまでたっても通関できない。また
時には相手クライアントに連絡がいき、たかが入国のことで迷惑がかかる。
過激派にとって男性のいうJOBはたくさんの仕事を想像してしまう。スパイ、武器販売、国際警察、まして銃を持っているのだから当然のことながらWHY?と聞かれる。Touristであれば、銃を持っていてもFor protectionとか言っておけばいい。個人の護身のために銃を持つのはめずらしいことではない。
 報道によると、男性は武装戦線が通りすぎた村を撮影したいと、現地の関係者が止めるのを振り切って行動したらしい。人騒がせな話である。おまけにこの会話力。英語はニュアンスに応じた使い方を知らないと命取りになることだけは肝に命じてほしい。

黒部さん家の教育事情 2014, Aug 15th

夏になると、ニューヨークの長くて暑い夏を思い出す。長いというのは夏休みのことで6、7、8月の3ヶ月間学校が休みになる。もちろんこの間の月謝は払わなくてはならない。にもかかわらず、3ヶ月間を5人の子供達とべったり一緒に過ごすというのは、お互い心身ともに良くないものがあるので、上の子達にはサマーキャンプに行ってもらうことになる。これがまた料金がかかる。当時小学校6年生の息子を1週間キャンプに送ると10日間送るとだいたい$1000はかかる。x3なのでかなりの金額だった。参考のために申し上げるが、このキャンプはニューヨーク近郊で行われるお泊まりキャンプの中では破格、激安の一つで、プログラムや食事に関しては子供達に絶えてもらうしかなかった。お金持ちの子供達が行くキャンプは1週間で30万円ほどかかる。よく映画に出てくるような夏のキャンプがそれで、黒部家には夢のまた夢のようなものだった。
 この格安キャンプは4HCキャンプといって、コーネル大学の慈善事業の一つである。1〜8まである各セッションの日程を選び、オプションでカヌー、乗馬、トラクター運転などを選べるが、どれも別料金なので
うちの子供達はオリジナルプログラムのみだった。それでもアメリカインディアンの工芸や、林でのサバイバルゲームなどアメリカならではのプログラムがたくさんあった。ただもう一つ問題だったのはキャンプ場までの送迎バス料金がばかばかしく高かったことである。これはマンハッタンからの送迎ではなく、保護者が子供達を村の集合場所まで連れて来てからキャンプ場まで乗せていくバスのことで、1人につき$20ほど取られた。たかが5分の距離をである。
 もし私が5人の子供と日本で暮らしていたら、キャンプにはやらず、どこか山の中の民家でも借りて過ごしたかもしれない。1ヶ月半の夏休みは子供と一緒に過ごすのにけして長過ぎはしないからだ。事実キャンプに送るよりビーチハウスを借りた方がよっぽど安上がりだということが後に発覚してからは、5人の子供達とロングアイランドにあるシェルターアイランドという小さな島で夏を過ごしていた。サマーハウスを友人とタイムシェアーをすることで借りる事ができた。私はサマーハウスにいるときは、思いっきりサマーハウスらしく過ごそうと決めた。朝は子供たちの起きたい時間にまかせる。但し朝食は自分たちで作らせる。(一番下の娘は2歳だったので、お姉さんたちの世話になっていたが)子供達にはテーマを決めて、自分で取り組みたい課題を午前中にさせる。午後は全員でビーチに行き、夕方までのんびりと過ごす。時には地元のおじいちゃんがビーチにいる子供達全員を波打ち際に座らせてからクラゲのうじゃうじゃいる海の中でのスパルタ水泳教室を開いたりしていた。このおじいちゃんは素手でクラゲを捕まえては、遠くに放り投げる。子供達は海の魔法使いだといっていたが私もそう思っていた。雨の日は傘なしで散歩に出かけ雨蛙の探しっこをしたり、雨の日に出てくる浜辺の生き物を探したりと、創造力の限りを使って楽しんだ思いでがある。このような生活を平日5日間子供達と過ごした。ちょっとしてホームティーチャーである。そして金曜の夜には島のフェリー乗り場に主人を迎えにいくという、今考えるとラグジョリーな夏を過ごしていたが、コスト計算をしてみると、シティーで過ごす夏休みより割安だということがわかった。一つにはショッピングモールに行かないので無駄なお金は使わない。交通費がほとんどかからない。食事は田舎で新鮮な野菜が安く買えるので割安。そしてなによりも子供達とゆっくり向き合える。兄弟の絆も強くなる。そして毎日時間に追われる生活の中では試すに難しい「自分のことは自分でする。」を実践するいい時間にもなった。
皆さんも今からでも遅くないので、夏の格安サマーショートレントを考えてみてはどうですか。あるいは来年の夏のために。人生で子供達と真に向き合える夏は数えるほどしかないのですから。
 
 

黒部さん家の教育事情 2014/July,25

黒部さん家の教育事情 2014/07/23

サッカー熱もさめたころ、教育事情に戻る。
前回ベビーサークルの話をした。実はこの時ママ友になった数人とは海を越えての付き合いが今でも続いている。長女の時のママ友は、アメリカ人のシェリル、彼女のアパートは冷蔵庫のようにエアコンを効かせていて、ご主人が小売りのようになったビールを晩酌していた。他には香港人のプンさん、シンガポール人のステラ、タイ人のアンジェラとアジア系が多い。ただ彼女達のご主人はみな白人、ハーフの子供達はお母さんに一つも似ていないのでかわいい。次女の時はブラジル人をご主人に持つデブラ、彼女には数年後に大変お世話になる。アルゼンチン人のエリダ、ルーマニア人のアンジェラ、どれもラテンの血が混ざっていて熱くなるとブレーキがきかない。長男と次男は歳が近いのでママ友を共有していた。イエメン人のシェリフ、トルコ人のアイシャ。三女の時は、ベルギー人の写真家ギーラ、ギリシャ系アメリカ人でキューバ人のご主人とイタリア紳士服問屋を営んでいるスーザン、リタはバキバキのユダヤ人で、母親はナチ統制下のユダヤ結社地下組織の女スパイで、その自叙伝葉アメリカでベストセラーにあった。こんな国際色豊なママ友に出会えたのはニューヨーク時代の宝だと思っている。ただママ友と呼べるようになるまでには、こちらもそれなりに努力しなければならない。子供同士のプレイデートをしたり、預かったり、預けられたり、時にはママ友とマンハッタンの街に繰り出してワイワイガヤガヤと飲んで食べても大いにやった。ニューヨークのママ友が日本のママ友と一番違うのは、その話題性だと思う。
日本では学校や子供の話となると、愚痴やゴシップが切り口となるが、外国のママたち教育制度、先生の質、大学のことなど、幼稚園の時から長期的な視野でおしゃべりがされていた。ただしユダヤ人のママと教育の話をすると、最終的にはいかにユダヤ民族が優れているかに行き着くので、ママ友たちからは多少敬遠されていた。
この時のことを思い出して考えるのはママの語学力である。アメリカ人以外のママは誰もが英語に母国語のアクセントがあり、特にラテン系は非常に聞き取りにくい。例えば香港人も広東語がそのまま英語になったような話し方をする。フランス系は単語のはしはしにフランス語を入れてくるからパズルを組み立てる感じで相手の話を理解する。でもこの経験がプラスとなって、その後どの国の人に出会っても、その会話が英語であるかぎりは理解できるというスキルを身につけた。と同時に、インターナショナルな友人関係を保つには、その国のことを知り、風習、習慣などを理解することが大切だということだった。例えばフランス人の子供が遊びに来て、勝ってにカルピスなど飲ますとママが嫌な顔をする。フランスでは子供達の飲み物は水と決まっているらしい。甘い飲料水は舌の感覚を鈍らせるという、美食の国らしい考え方だ。タイ人はあまり頭をなでるとうれしくない顔をする。肩がそれにかわるらしい。イエメン人はラマダン(断食週間)の間、大人は唾を飲み込むことさえ御法度とされ、子供もあまり外に連れ出さない。なのでこの間のプレーデーとは控えめになる。ブラジル人やアルゼンチン人は夕食がやたらと遅く、子連れで夕食に招かねると早くて9時、遅いと10時ぐらいから食事が始まる。子供達はもちろんソファーで寝てしまう。こちらもデザートが終わると夜中の2時頃になるのできつい。
 プレーグループや幼稚園時代のママ友は一生の付き合いができる。子供達が大学を卒業し、社会人になっても、これからの人生のこと、健康のこと、そして母親としての自分たちのことと話題はつきない。ちなみに日本にも愛すべきママ友たちがいる。三女が幼稚園に通っているときに役員のくじに当たり、一年間園での仕事をともにした仲間である。年に二回妙蓮寺の焼き鳥屋で飲み会をする。たわいのない話をしながらも日本語で会話のできるママ友がいることを感謝している。

日本のサッカーが勝利するためには。

World soccer cup が終わろうとしている。
日本初戦の日、スーパーに買い物に行ったら店内は空っぽ、恐ろしいほどにシーンと静まりかえっていた。
それほどにほとんどの日本人がテレビに釘付けになり、日本の勝利を信じてゲームを観戦していた。私は熱烈なサッカーファンではないが、日本チームが一生懸命にプレーしている姿を見ているとやはり勝ってほしいと思うのは日本人すべてに共有した気持ちだった。
ただ、正直なところ、私は日本人が優勝することは、日本の社会が変わらない限り不可能に近いかとも思っている。もっと具体的に言うと、日本から学習塾や習い事教室がなくならない限り、継続的に勝利をおさめていく事はかなり難しいと思っている。これを痛切に感じたのはブラジルに行ったときに見た子供達の遊ぶ風景だった。フラジルにもゲーム機に興じる子供はいるが、それよりもなによりもサッカーである。というよりボール蹴りで遊ぶ。朝夕涼しい時間はイパネマやコパカバーナのビーチには子供達があふれている。サッカー教室というわけではなく、親や近所のお兄ちゃんと一緒にボールを蹴って遊ぶ。砂地なのでフットワークが強くないと走り回れないのだが、力強くボールを蹴る姿は将来の選手を思わせる。また、路地裏に入ると
そこでもボール蹴りに夢中な少年達がたくさんいる。壁に書いたゴールの前でキーパー気取りだったり、2&2で巧みにゲームをしている姿は日が落ちても続いている。ブラジルだけではない。コスタリカの首都サンホセに行ったときも、びっくりするほど多くの子供達が道ばたに出ていて通行人などなんのそのでボール蹴りをしていた。ドイツで実際にサーカーをする子供達を見た事はないが、ニューヨークで出会ったドイツ人すべてはサッカーゲームがテレビで始まるというと、電話にも出ないで観戦するという熱の入れようだった。中には、仕事をなげうって、恵まれない子供達のためのサッカーチームをたちあげ、見事地区優勝を果たした友人もいる。彼の奥さんは元東ドイツ領から来ていたが、サッカーに対する思い入れはちょっと日本のママ達にはまねのできないほどに強く、一緒にテレビなどを見ているとドイツ語で怒鳴るから怖いぐらいだった。
話をもどす。日本の子供達がサッカーに出会うのは幼稚園頃からと思う。そこで興味を持った子供達はいわゆる有料のサッカー教室などに入り、小学校に上がっても継続していく。私も新横浜やみなとみらいなどでの練習光景を見る事があるが、なんというか、あのブラジルで見たようなとてつもないパワーをその練習から感じることは残念ながら一度もない。
私はサッカー業界のことを良く知らないから偉そうなことは言えない。ただ、もう一つ疑問に思う事がある。日本人は昔からチームワークで仕事の成果を上げていく国民性を誇っていた。営業も、技術開発も日本人のすばらしいチームワーク力によって多くの成功がもたらされてきた。しかしこのチームワークというものは日々の共同生活でのみ作られるものではないのだろうか。日本の各選手がイタリア、ドイツ、スペインという強豪チームで活躍している。それぞれのチームで技を磨き、またプロのサッカー選手としての知名度も高まる。しかしである。それぞれの選手が良いものを培ってきても、それをチームワークの中で活かせなければそれまでである。インスタントでベストチームを作っても、1年、2年といつも一緒に練習して作り上げたチームワークとはどこかが違っているような気がしている。私は学生時代にヨット競技をしていた。こんな海の上の小さな競技でさえ、クルーとスキッパーのチームワークが勝利を分ける。1年間一緒に練習して初めてレースに望むのチームワークができあがってこそのものだった。
日本チームを応援してブラジルに行ったサポーターの人たちの中には、この4年間節約をしながらお金をため、一人当たり渡航費、ホテル代、観戦代を合計すると150万はかかると言われている。私の心配することではないが、エクスペディアなどで格安チケットを購入したり、ホテルを予約したりした人もいるかと思うのだが、日本の勝利を信じて閉会までブラジルに滞在する予定だった人たちなど、格安券は変更などできず、できたとしてもペナルティーフィーなどを取られることを考えると、予選大敗で予定が狂った人たちも多かったのではないかと思う。もちろんサポーターの方々はそんなことも覚悟でブラジルに行かれたと思うが、家族で行かれた方たちの経済的ダメージは小さくはなかったと考える。
もう一度日本人は、どうしたら将来ワールドカップで勝利できるかの、日本の社会も巻き込んだ大きな企画書を作成することをせまられているのではないだろうか。これができない限り、どの監督が就任しても結果は変わらないかもしれないと思うのは私だけだろうか。

黒部さん家の教育事情 6/18

日本にもママとベイビーのサークルがあるように、NYにもベイビークラブがあった。親子でリトミックをしたり、遊んだりと日本のそれとあまり変わらないが、クラスの後に始まるママ達のおしゃべりの内容は政治、経済、教育と多方面に及んでいた。特に政治の話になると熱くなるママが多く、選挙前などは民主党、共和党とグループが別れてしまうほどだった。この政治意識は子供の教育にも影響していた。例えば民主党(現オバマ大統領の党)は社会福祉や教育に手厚い保護を公約している。逆に共和党はビジネスを活性化させ国民全体に仕事がゆきわたることで社会の安定化を公約している。これをママは子供達にこう教える。「ここに一つのパンがあります。みんなはこのパンを今食べたいか、それとも、このパンは食べられないけどパンの焼き方を教えてもらって、毎日パンがたべられるようにしますか。」つまり前者が民主党、後者が共和党の考え方なのだ。これを日本に置き換えてみると、共産党あたりがパンを与え、自民党はその作り方を教えるのかというと、そうはっきりとした線引きはできない。ともかく、このようにしてママ達の会話は続く。なのでかなり英語も鍛えられる。私も政治に興味がないわけではないので、この高度な会話についていく為に自宅学習までしてしまった。
ベイビーサークルの話にもどる。インターナショナルベイビーサークルとはこのことを言うのかと思うほど、世界中のママに出会った。それぞれに国民性なのか、子育てやしつけ、教育に特徴があった。フランス人は自国愛が強く、子供にはかたくなにフランス語のみを使う。子供が英語で答えるとNon! parle France!と手厳しい。イギリス人も同じでクイーンズイングリッシュに徹するので、子供がwhat?とかでたずねようものならExcuse me, I beg your pardon?といってwhatを無視、アメリカ英語を無視する。東欧系はママもちょっと地味な感じだが、子供がなんらかの理由で無視されると烈火のごとく反発してくる。アジア系はこと学習のことになると大変熱心で、他人の子供と比べたがる。この辺は日本人も一緒で、数を100まで言えるかどうかで、自分の子供が言えないとわかると、自宅で特訓もいとわない。アフリカ系もプライドが高く、特にNYに来ているアフリカ系の子弟は親が外交官だったりが多いのでなおさらである。誕生日なども派手で
アフリカンキングの世界そのものである。ただなんといってもダントツに教育熱心なのはユダヤのママ達である。ユダヤ民族を絶やさずというのがこの人たちの使命であるから、子供の教育も肝いりである。また子育てはお金なしには不可能という意識がはっきりしているから、赤ちゃんが誕生すると大学を卒業するまでの教育企画書が作られる。
私が3人目の子供を出産したときに、あるユダヤの友人から教育資金はどのように捻出するのかと聞かれ答えられなかった。彼らにとって出産とは、きちっとした事業計画のもとに行われるもので、そこで資金難などが予想されれば子供は作らない。学校を選ぶのも、コストパフォーマンスのすぐれた学校をいくつか選択し、大学に至っては奨学金獲得作戦までもが含まれる。実際、このようなしっかりとした計画のもとに子供の教育が行われているので、NYのトップスクールはほとんどがユダヤの子弟で占められる。ユダヤママの子育て理念ははっきりとしている。1、子供を誉めちぎる。2、教育にお金を惜しまない。3、子供にいい影響を及ぼす友のみを選択する。4、ユダヤ教を生涯の宗教としてあがめる事を教える。ただこれらが行き過ぎるとユダヤ以外のママ達から反感をかう事になる。事実行き過ぎる事が多いのでユダヤママとは一線をひくママも多い。私としては強い信念と計画性をもって子育てをしているユダヤママを尊敬している。事実自分もユダヤママのように計画性のある子育てをしていれば、大学の学資でローンを組んだりすることもなかったかと反省しているのだが。(つづく)

黒部さん家の教育回顧録

黒部家の教育は幼稚園ではなくベビーシッターからスタートした。といってもナニーのようなプロのシッター兼家庭教師がいたわけではない。アメリカでは12歳以上のティーンエイジャーにアルバイトで子守りをたのめる。長女を出産して2週間目からベビーシッターを頼んでオペラを見に行ったが、この時も16歳の子にシッターをお願いした。今考えるとちょっと無謀だったかもしれないが。
 なぜ、ベビーシッターから教育がスタートしたかというと、子供達が彼らから学んだ事がたくさんあった。特にしつけ。例えば汚い言葉を使ったときにはシッターが石けんを持ってきて、本気で口の中に押し込むふりをする。これは実に効果のあるしつけで、子供達にとって、自分の言った言葉がどれくらい汚いものなのかを、身を以て体験、反省する機会となる。またある時はおままごとをしながら、本物のお金を使って子供達に買い物ごっこをさせる。当時一番下が3歳だったが、1セント玉を握ってPenny, Pennyと言いながら買い物に夢中になっていた。学校ごっこも子供達にとっては最高の楽しみで、生徒がベビーシッター、先生が子供達、壁に模造紙を貼って黒板の代わりにしての学校もどきである。生徒役のシッターはわざと本を読めない振りをして、”Can you read this book please!”と先生役の子供達にお願いすると、子供達は一生懸命に本を読もうとする。なんといっても先生なのだから。
 海外での子育て中、日本からau pairオーペアーを採用した。ヨーロッパで発達した住み込み条件付きベビーシッターである。条件とは住むところと食べるもの、そしてお小遣い(給料ではなく)を提供するかわりに、ただでシッターをしてもらうというシステムである。主人の国連勤務が幸いして、シッターにビザを与えることができた。アメリカには他にも民間のオーペアーエージェントがあり、国内はもとより、ヨーロッパなどからオーペアーガールを希望する若者は多い。黒部家も計4名のオーペアーを日本から受け入れた。目的は子供達の日本語上達のためだった。ただ初代は高校を卒業したての女の子で、英語もからっきしだめ、元気だけが取り柄という、私にとっては子供が一人増えたようなものだったが、今でもその子とは当時を振り返りながらのおつきあいをしている。子供達と一番よく遊んでくれたのは宮崎県出身の大学生で、特にスポーツには秀でていた。当時ローラーブレイドが大人気で、この青年はこのブ
レイドでマンハッタンからJFK飛行場のある車で40分の距離を、1時間ほどで完走するという特技?を持っていた。次男は彼のローラーブレイド教育をしっかりとうけ、4歳で滑り台からローラーブレイドを履いて滑り降りる事と、セントラルパークを15分で横切る事を学んだ。もちろん擦り傷は絶えなかったが。
 残念ながら、こんなにおもしろく遊んでくれる、それも子供達のためになるシッターはそうめったにいるものではないと思うが、おかげで黒部家の子供達の幼年時代はFantastic! であったことに間違いはない。教育とは学校だけではないということを実践した数年間であった。(つづく)

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