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ILH代表黒部のブログ

ロボットという選択

 スタイリッシュな電気自動車テスラを世に出したイーロン・マスクが、これまたスタイリッシュなロボットを世に出す。先月紹介された動画を見ると、かなり完成度の高い動きをしている。プレゼンテーションではアマゾンの梱包作業をロボットが人の代わりにしていたり、ウーバーの代わりにロボットが配達作業をしていたりする。イーロンはそんな動画を背景にこう言った。「ロボットが人の作業を肩代わりし、人はもっと別の時間を楽しめるようになる。幸せな時間を増やせる。」と。私はちょっと待ってよ、イーロンさんと思った。もしアマゾンの梱包作業員が、自分のしている仕事に愛着を持っていたとしたら、ロボットの出現を歓迎するだろうか。アマゾンは広大な土地を開拓し、雇用も増やして来た。アマゾンだけではない。グーグルの下請けや、アップルの部品工場も同じように大きな雇用を作り出している。これがロボットに変わった時、人は別の時間を楽しむどころか、仕事を失い、別の時間は仕事探しに翻弄することになる。
世の中が機械化され、人間が行う全ての行動は便利になった。しかし人とは元来人と群れることで、そこに会話が生まれ、仕事以外の生きがいも生まれる。
日本でもペッパーロボットが話題になったことがあるが、結局は人間社会に同化はできなかったように思う。ペッパー君だけではない、ワンちゃんのロボットやウエイトレスロボットなど、人間の生活や活動を助けるという目的で社会デビューしたものの結局は機械で終わってしまったように思う。そもそもロボットが人間の代わりをするというコンセプトが私にはピンとこない。もちろん体に障害があり、ロボットの助けを得ることで生活が楽になるという例はたくさんある。これはこれで賞賛に値する。医療の分野でも人の形を持ったロボットではないが大活躍をしている。しかし人間が働きがいを持って仕事をしているところを、ロボットに変えてしまうのは人間から仕事を奪うことになるのではないか。産業革命は1760年から1830年の間に起こった緩やかな革命ではあったが、社会を劇的に変化させた。その時は「便利になった。」「早くなった。」「楽になった。」という、人間にとってはありがたい革命だったに違いない。それでも職を失う人は年々増加していった。人間はどこまで「便利」「早い」「楽」を追い続けるのだろうか。仕事は大変だけどやりがいがあり、これで家族が幸せに暮らせるのだという幸せへの営みは、ロボットの使い方を間違えると消えてしまうかもしれない。
ある人は言う。ロボットに仕事を代わってもらって、今までできなかったことをすればいい。この意見に私は賛成できない。簡単なことだが、ロボットの初期投資は高い。しかし企業が人件費の削減を実行しロボットを導入することで長期的にはコスト削減ができる。ロボットは定期的なメインテナンスは必要かもしれないが、給与、ボーナス、社保は必要ない。そうなると人を雇っているより長期的にはコスト削減になる。所詮人が人生を楽しむためにロボットが協力すると言うのは、ある程度蓄えがあり、毎日働くなくても食べていける人を対象とした非現実的なメッセージとしか思えない。
イーロン・マスクを全面的に批判するわけではない。テスラもかっこいいと思うし、彼のアイデアには面白い発想がたくさんある。ただどれもこれも一般庶民には中々手の届かない商品であり、それが場合によっては人間社会の格差を助長しかねない。世界の貧富の格差はどんどん広がる。きっと今の子供たちが大人になった時、日本も今以上に格差が広がっているかもしれない。Sustainableをどこの企業も打ち出しているが、皆これを「持続できる」と訳しているかもしれない。しかしそこには「耐えうる」と言う意味も含まれている。今のSustainable
では、後者の訳になりそうである。

幸せの尺度と英語教育

ランゲージ・ハウスはでは今、2023年度の新入園児保護者の見学会が行われている。
「日本の英語教育の現状を理解し、それなりの危機感を持ってお子さんの英語教育を考えて欲しい。」とは私が常々見学会の中で、来て頂いた保護者の方々に話していることである。この話を裏付けるような情報が、以前プレスクールの主任保育士をしていた岡谷さんから届いた。現在ご主人のお仕事の関係で上海に駐在している。岡谷さんが上海に到着した当時、現地ではコロナの厳戒態勢が引かれていて、マンションの敷地内から一歩も出られない状態が2ヶ月ほど続いたという。最初は見知らぬ土地でどうなるかと思ったというが、同じ敷地内に住む中国人家族は比較的裕福な方々が多く、お互いに助け合いながらこの危機を乗り切ったという。そんな時に知り合った中国人のファミリーは、皆教育に対する意識が非常に高く、一人っ子政策の影響で富裕層が教育費にかける割合が、日本より何十倍も高いという。1ヶ月の教育費が100万円などという家族はごく普通の話だという。同じような話を韓国でも聞いたことがある。韓国の幼児英語熱は毎年加熱していて、外国人講師のお給料もアジア圏ではダントツだという。その昔日本で英語の先生をすれば貯金がたまると言われていたが、今外国人講師が貯蓄を目的として働いているのなら、韓国が一番その目的達成を可能にしてくれる。それくらいに幼児英語、英会話教室の数が多く、国挙げての政策も取られている。ただ一つ面白い現象なのだが、このように英語教育が過熱している両国ではあるが、保護者の目的は自国で英語を話せるようになるというより、将来英語圏に留学させることで、グローバル企業で職を得る足がかりを作りたいという理由がある。今日本では長期留学を望まない若者が増えているらしいが、中国、韓国の若者は外へ外へと向いている。一つには先陣を切った先輩たちが英語圏の大都市で成功し、アジア人富裕層として活躍している現実がある。Netflixなどの番組でもアジアンリッチをテーマにしたドラマに人気があるのも一つの現象かもしれない。一方、日本はというと軸足は親方日本である。日本の生活に不満は感じながらも、なんとか生活を守り抜こうという、日本のドラマや映画を見ていても、この現状が浮き彫りにされている。将来何が幸せなのかは別としても、中国人、韓国人が外向きなのに対し、日本人は内を見ているということは少なからずの現実だと思う。コロナが下火になってもこの現象はしばらく続くだろう。
 私は考える。人の幸せは、その過程にあると思っている。例えば子供達にお菓子を作っている時は、実際に食べてもらった瞬間より幸せ度が持続している。もし日本の若者たちが長期的には海外に住むことを拒んだとしても、日本がより良い国になればそれでいい。ただ日本の若者には世界中にある色々な幸せの形を体験し見てもらいたいと願う。そのためには観光旅行でも、ワーホリでも、駐在勤務でもなんでもいい。自分から海外を観に行きますという意識を常に持って欲しい。これを実行する可能性を高める一つの要因は英語教育である。アメリカやオーストラリアに留学して現地に同化し、グローバルな企業人にならなくてもいい、とにかく広い視野で自分の幸せを考えることのできる人間が、これからの世界を息抜き、本当の幸せを手にする若者だと信じている。世界中どこに行っても英語ができればなんとか幸せな人たちに仲間入りすることは可能である。

海外渡航至難の年

 8月航空運賃が一斉に上がった。お金にはとてもシビアーな義理息子が3年
ぶりにシカゴに帰ることになって格安航空運賃を探していたら、片道最低価格
で19万、往復だと34万はすると言っているので、そんなバカな、節約家の
あなたが格安運賃を探せないなんておかしいわよ、とは言って見たものの、ど
のサイトを見ても30万以上する。29万というのがあったが、なんと乗りか
え3回で離陸から目的地到着まで30時間もかかる。航空券そのものが高級品
になってしまったようで、このような金額では学生はおろか、ファミリーで海
外旅行もままならない。おまけにこの円安で海外での宿泊や買い物も節約覚悟
で行かないと大変なことになる。そして私がもっとも懸念していることが、夏
休みを利用して海外経験をしたいと計画していた若者が、その予定を諦めなけ
ればならないことになってしまう現実である。実際そのような人たちが私の周
りにもたくさんいる。コロナ禍海外渡航を我慢してきた人たちにとっては、
羽田や成田でのPCR検査がなくなり、最悪自粛だったホテルでの10日間の
監禁がなくなって、やっと海外に行けると思っていたら、この航空運賃の値上
がりである。
 私が学生の頃、海外旅行は高嶺の花だった。まして海外留学に至っては頭の
良い、そして英語の話せる人たちだけに与えられる特権みたいなものだった。
大学生の頃アメリカのアイビーリーグに憧れてハーバードやイエールを目指す
クラスメイトがいたが、彼女たちがターゲットにしていたのは給費留学だった
。私も含めた一般学生は飲み会や部活、バイトが学生生活の主な部分を占めて
いたが、留学志願者はそんなものはどうでもよく、給費留学試験に合格するこ
とだけを目指していた。出せるところから航空代、宿泊代、学費、滞在費を出
してもらい夢を実現すると言った強い目標設定には周りが近寄れないすごさも
あった。
 さて、今でも給費留学の種類はたくさんあるが、先日ラジオを聞いていたら
コロナの2年間を過ごした留学希望の学生に変化が見られるという。どのよう
な変化かというと、2年間に及ぶ日本の鎖国政策にも似た渡航、入国制限で学
生は諦めモードに入ってしまい、海外そのものに興味がなくなってしまった。
あるいは諦めてしまった学生が増えているという。給費留学の倍率が過去に
10として、今は2ぐらいになってしまった。このような現象は日本の将来に
とっては全く良くない。若いうちの海外体験は将来大きな糧となってその人の
役に立つ。しかし国内でくすぶっていては世界は狭いままで、10年後20年
後の社会の変化についていけない。
私は日本という国が自国の若者への教育、特に英語教育を甘く見ていることで
起こる日本人の就職難を懸念している。英語の話せない日本人を雇用するより
、英語、日本語、中国語、あるいはベトナム語、タイ語など、3カ国以上の言
葉を話す外国人を選ぶようになる。その前兆がコンビニなどで見られる。コン
ビニで働いている外国人のほとんどが悠長な日本を話す。またコミュニケーシ
ョンができるぐらいの英語も話す。今後このような外国人の活躍は他業界に広
がっていくことは間違いない。道路工事の現状が一つの例だ。以前はスコップ
を持って穴掘りの仕事だけを担当していた外国人が、今では解体のシャベルカ
ーを操ったり、測量をしたり、パソコンを持ってシステム環境を検査したりと
仕事の幅がぐっと広くなっている。またソフト関連でも外国人が作る人事管理
システムや健康管理システムも日本国内で広く出回っている。このように見て
いくと日本人が外国に出向かなくても、外国人との競争はすでに始まっていて
、将来はよほどの特殊技能がない限り、日本語だけ話せる日本人の職場は限ら
れたものになってしまう現実がそこまで来ていると考える。
 もし日本の政府がこのような将来を憂い、日本人の若者たちが外国人と競争
していける力をつけるために、学生たちの航空運賃を半額にするとか、Go to
travelの海外バージョンを作るとか、英検やTOEICのような点数やレベルを図る
ものではなく、もっと具体的なコミュニケーション能力を育成できるようなテ
ストシステムを作り、奨学金を与えるとかを考えるべきではないかと思う。
 日本の若者が「しかたがないから日本に住む」というような諦めの意識を持
つことだけは回避したい。

2022/6/23

アメリカのメジャーテレビ局NBCは、Nightly NewsにKids Editionがあって大人向けのニュースを子供向けに編集し解説している。例えばウクライナ問題。
毎日のニュースではロシアが悪者でウクライナは被害者(事実そうなのだから仕方がないが)という視点から報道し、今日は何人戦死したとか、どこそこにミサイルが打ち込まれたなどという話ばかりである。しかしこの放送局の子供版は、まずウクライナがどこにあって、どんな人たちが暮らしていて、どんな産業があって、学校ではどんなことを勉強しているのかというような視点から、その国のことを解りやすく説明し解説している。多様性の国アメリカではウクライナ系住民も多く、またロシア系(第二次世界大戦中、ロシアから多くのユダヤ人がアメリカに移民している)住民はアメリカのいたるところで活躍している。
今世界は色々な問題を抱えているが、国の政治や経済に関連した報道は、報道局の主観が入ることが多く、時として偏った報道がなされてしまう。これを子供達が鵜呑みにして理解すると、ある国に対する偏見が出来上がってしまう。親は気づかないことが多いがメディアの影響力は徐々に子供達にも影響する。
 私はロシア人の友達がいる。その人に今のウクライナ問題を聞いてみると、あれは内戦なので他国は関与すべきではないし、アメリカやEUに操られてはならないというような意見である。確かにロシアがソビエト連邦( USSR)だった時代からの歴史的背景ではウクライナは連邦の一部である。しかし私たちから見ると、そうであっても戦争や人殺しは許してはいけないと思うのだが、ロシア人も殺されているのは真実である。最近日本がロシア大使館で働くロシア人を強制帰国させたのも、そのロシア人の友人にとっては、日本は今の戦争に左右されない将来的な国の利益を優先するべきであるという。その人は日本に20年以上暮らし、日本人と結婚している。子供達も日本の教育の中で育ちバイリンガル能力もある。しかし子供達がウクライナの状況をテレビ報道で見ながら、何とも複雑な表情になり、ロシアに対しての好感度が消えていくようだという。母親は子供たちが学校でウクライナ問題が原因でいじめにあったりしないないかを日々心配しているという。
私は歴史教育、特に国同士の争いに関しては、必ず戦争が起こった理由を、戦争という事実よりも大切なこととして子供達に説明してほしいと思う。以前イスラエルのホロコーストミュージアムに行った時、ユダヤ人が迫害にあって辛い、悲しい、恐ろしいという部分はしっかりと伝わってくるのだが、何が原因でこうなったかの説明はなかった。それがないことでユダヤ人の悲しい歴史だけが強調され、このような歴史を繰り返さないためには何を学ばなくてはいけないかが不明瞭となっている。
保護者の方々にお願いしたい。全ての争いごとには発生理由がある。解決方法の歴史もある。小さい頃から子供達に「理由」というものをしっかりと説明することで、将来子供達が同じような問題に向き合った時、一つの考え方の助けになる。戦争は怖いね、嫌だね、悲しいねという場面を見たら、なぜこうなったのかを家族で考え話し合う、そんな時間を持ってもらいたいと願う。

卒園児に向けて

あっという間に3月になり、卒園式が行われる3月19日まであと2週間と少し、土日を入れなければの残りは12日である。早い、早すぎると毎年3月になると卒園児たちが愛おしくなる。それにしても子供達の成長は早い。これが一番よくわかるのは子供達が階段を上り下りするときに見える素足の大きさだ。年少から年中の半ばぐらいまでは小さな可愛いベイビーフットが、年中の夏休みを過ぎるあたりから俄然大きくなる。足だけ見ていると幼児ではなく児童といったほうがいい。それほどに足は子供の成長をはっきりと垣間見ることができる。
さて、卒園児に送るメッセージを書きたい。小学校に上がっても忘れて欲しくないことがいくつかある。それはランゲージで培った人間性に関わることがほとんどである。
その1)常に自分に自信を持って闊達に新しい友達や先生と接すること。
小学校に入ると新しい環境のせいか、突然のようにしぼんでしまう子供がいる。
幼稚園ではあんなに意気揚々としていたのに、と親は心配するのだが、子供達とっても新しい環境で自信満々に振る舞うのは大変なことである。4月5月は子供を叱らずにできる限り褒めてあげて欲しい。「すごいじゃん!」と声をかけて欲しい。間違っても「どうしたの?元気ないね、しっかりしなさいよ」とは言わないこと。子供にもプライドがある。
その2)わからないことは解らないということ。解りません、教えてください。
を習慣とすること。
子供に自信がないと、質問をすることが怖くなる。こんな質問をして笑われるんじゃないか、バカだと思われるんじゃないかと悩む子供は多い。しかしこの時期に人に聞いて解らないことを解決するという習慣は大人になってからもずっと役に立つ。反対にこの時期に解らないのにわかったフリをする癖がつくと人生でなんども躓いてしまう。例えば夕食の時、ママは「今日1日何か解らないことがあったら教えてあげる。」というように切り出して守るのも一つである。
その3)困っている人、いじめられている人、弱い人を助ける気持ちを持ち
行動する。
小学校に入るともっと身近にいじめの現場に遭遇するかもしれない。不運にも自分がいじめられてしまうかもしれない。その時は黙っていてはいけないことを教えよう。昔の子供達は言いつけ魔というのがいて、結構活躍してくれた。誰かがいじめられていると、言いつけ魔が先生の所に飛んでいき報告する。それも先生が動いてくれるまでしつこく言い続けてくれる。今はどちらかというと触らぬ神に祟りなしという子供が多いと聞く。また1人で行動する勇気を持たない子が多いので、自分が正しいと思った行動は勇気を持って行うことを教えたい。
その4)英語が理解できればゲームはもっと楽しいし、もっとすごいことができることを教えて欲しい。
英語が話せたり、読めたり、書けたりすることのメリットを子供目線で理解させてあげることが大切である。子供達が今大切にしていることや、面白いことが英語によってより面白くワクワクできることを具体的に教えてあげることで英語への興味は具体的になる。幼稚園や保育園で5年、あるいは4年近く学習した英語には子供達の努力が詰まっている。これを小学校に入ってから継続ができないと数ヶ月で0に戻る。この恐ろしい現実はたくさんの卒園児が体験していると思う。少なくとも子供達の努力を無駄にしないためにも、英語継続の環境を与えるのは親の役目だと考える。
その5)子供の能力があらゆる意味で開発されるのは「遊び」である。
子供達は習い事が増えるたびに笑顔が消えていくという現実を親は真摯に受け止めなければならない。何のための習い事なのか、習い事の目的は何なのかを
家族で話し合って欲しい。情操教育、感性強化、体力増強、運動能力強化と目的はあるかもしれないが、このうちのいくつかは「遊び」の中で解決できることはある。それも子供にとってノーストレスである。子供にとって「遊び」は心身ともに特効薬になることは間違いない。
子供達の未来は無限である。ところが成長するに従って無限は有限になり、時として無だけになる。少なくとも将来、子供達が自分にあった仕事を探すまでは
可能性を無限大にする環境を提供するのは親の役目だと思う。そのファーストステップとしての小学校、この先の6年間を見据えた子育てプランを立ててみてはどうだろうか。

2022年ランゲージ・ハウスの教育指針

2022年を迎えワクワクしている。オミクロンやその他コロナに関わる現状は残念ながら回復傾向にはないが、それはそれとしてランゲージ・ハウスが2022年度に目指す教育について話したい。

ランゲージ・ハウス幼稚部

幼稚部は開園11年目を迎えるが、開園当時と今では幼児英語に関する社会の関心が大きく変わった。10年前は外国人の先生と生活を共にすることに関心があったが、今はいかに英語教育が実践され、成果を出しているかが問われる時代になった。また教育の無償化に伴い、学校法人、認可保育園など無料で保育してくれる施設にも本格的な英語教育が浸透し始めている。最近では英語塾がインターナショナル保育園を始めたり、外国人の子育て支援員も珍しくなくなった。そんな現状の中でランゲージ・ハウスが継続的に子供達のためになる教育、学習に取り組むにはいままで以上にしっかりとした年間計画が必要になる。2022年の保育方針と英語教育の具体的ありかたを説明する。

保育方針 人の話を聞き、自分とは違う意見を理解し、そこから自分の意見を引き出すことのできる人間としての幅を
     幼い頃から育む。これを具体化するためには、保育士、外国人講師、また子供達に関わるせうべての大人が
     同じように子供達の話を聞き、理解しようとつとめ、大人として適切な意見を子供達と共有できる技量を持つ
     ことを毎日の保育の中で実行する。

     地球の尊さを教え、自然の威力を理解し、人間以外の全ての生き物と自然を尊ぶことを教える。

     お父さん、お母さん、兄弟を大切にし、お友達を大切にすること、誰か困っている人がいたら助けることを
     常に意識づける習慣を育む。

     いつもチャレンジ精神を持ち、あらゆることに興味を持ち、知りたいと思う気持ちを大切にフォローしてあげ
     る環境を大切にする。

英語教育 いままでにないほどに子供達に「話す」機会を与える。「話す」ことを教える。外国人講師は子供達が日本語
     で質問を投げかけた時、必ず質問を英語に直し子供にリピートさせる。

     それぞれの歳に応じた会話の基本を毎日の学習に取り込む。特に生活に必要なフレーズを中心に繰り返しリピ
     ートする環境を設定する。

     デジタルコンテンツなどを学習のサポートツールとして使い、子供達の興味を弾きながら英語は興味ふかく
     て面白い、だから好きを可能にする。

外から見た日本 2021

今年もVOICEを読んでいただきありがとうございました。毎回勝手なことを書いていますが、最近日本を批判するようなことが多いかと反省しています。しかしこれも日本を想う気持ちです。日本は美しい国です。食べ物は世界で一番、特に素材の美味しさでは世界遺産に登録されただけの理由はあります。そんな素晴らしい私達の国がこどもたちの未来に向かってより良くなっていくためには、海外から日本を見つめ考えることも必要かと思います。来る年2022も世界に目を向けた発信を続けたいと思います。
12月、日本脱出を企てた。というのは大げさだが、日本政府がオミクロン株の水際対策として、海外特にオミクロン感染者が出た地域からの帰国者には3日間指定施設での待機要請が出ていた。以前緊急事態宣言下で帰国した外国人スタッフ数名がホテル待機を体験していて、It’s just like jailと言っていた。話では部屋からは一歩も出られず、毎日三食ドアの前にお弁当が配達される。しかし中身は朝から鯖の焼き物や脂身だらけの生姜焼きだったり、やっとパンが支給されたらお菜がしらたきの煮物だったりと外国人にとってはかなりハードなメニューだと言っていた。それにコンビニにもいかれないからコーヒーもビールも買えない。監禁状態である。こんな状態で海外に行きたいという人はアホ以外の何者でもないのだが、私には別の渡航理由があった。今年5月にハワイに住む息子がコロナワクチン接種を段取りしてくれた。もちろん日本でも接種はできたが5月に数年ぶりに5人の子供達とその家族がハワイで集まろうということになり、ハワイに来るのなら接種をして来るか、現地でしたほうがいいということになった。これも息子の親孝行かと受け入れることにした。
 それから数ヶ月たち緊急事態宣言が開け、やっと海外から子供達も戻ってこられると思っていた矢先、オミクロンが現れた。息子は我々の歳を心配してドクターに頼み、通常ソーシャルセキュリティーを持たない者は接種が受けられないところをねじ込んでくれた。こんな話をすると黒部さん、何もそこまでしてハワイまで行ってワクチンを打たなくてもいいんじゃないですか?アホと違いますか?と言われそうだが、もう一つの理由が私に国外脱出を計らせた。それは外国の様子、コロナ禍で他国の入国状況はどうなっているか、街の様子はどうか、またスタッフから聞いていた地獄の3日間は本当なのだろうか。どれもこれも自分で体験、この目で見なければわからないと考えた。なぜならランゲージ・ハウスにはクリスマス休暇で国に帰る外国人が多く、日本への再入国に夜も寝られぬほどに不安を抱えているものが多いこと、また来年外国から入国を予定しているスタッフの現地での近況も気になった。あれこれと考えるよりは行動ということである。
ハワイ、というより外国は日本より自己責任を重んじると感じている。例えば入国に際しても日本のような厳戒態勢は引いていない。どうぞ来たい方はきてください。その代わりどんなことがあっても自己責任でお願いしますね、と言った
対応である。ワクチン接種カードと日本で受けたハワイ州公認PCRの証明書提示は求められるが、日本のように着陸してから空港を出るまでに数時間もかけて検査チェックを行うようなことはない。
 ハワイでは全ての飲食施設、その大小を問わず入り口でのワクチン接種証明カードと身分証明書の提示が義務付けられている。マスクも然りである。この二つをチェックする専門の係を配置しているところも多い。内容チェック後、紙でできた腕輪をもらう。これは店ごとに色が違い、何軒かはしご飲食するとカラフルでファッション性のあるアクセサリーにも見える。日本では未だワクチン接種証明書の提示は義務付けられていない。しかし体温測定やアルコール消毒も一過性な部分があり、基準があって無いようなシステムにも見える。ハワイでは一度店内に入ると実に楽しく会話をしている。日本はお酒が入ると声が大きくなるがオフィス街のランチなどはシーンとしている。飛行機の中で見た香港映画が日本人のそんな光景を映し出し、「シー」と人差し指を立てて他人の会話を注意する姿を皮肉たっぷりに描いていた。外国人はよく見ている。
 滞在中日系ハワイ人のホームパーティーに招かれた。全員ワクチン接種済みというのが条件で参加した。入江に面した家からは日が落ちるとクリスボートのパレードが見える。昨年は自粛したというイベントだそうだが、今年は皆大声で声援を送り、船からは裸同然で踊りまくる人々の姿が見えた。
 「昨年の今頃は暗かった。心も暗くてみんな落ち込んでいた。でもワクチン接種の後は皆その効果を信じて楽しく生活しようとしている。もし羽目を外して感染したとしても個人の責任だ。コロナはそんなに簡単には終わらないことを皆が分かっている。でも人間は我慢しすぎたり、心配しすぎるともっと別の怖い病気になる。ハワイ人はそれをよく知っている。明日をもっといい日にするには
ポジティブに生きる、これがハワイの流儀だ。」と話してくれたパティーのホスト、私は彼を日本に連れて帰りたいと思った。
 日本に戻り3日間のホテル待機を体験した。成田に到着してからホテルに着くまでの時間が7時間、外国人スタッフが体験したと同じように部屋からは一歩も出ていない。テレビを見るかパソコンでネットフリックスを見るか、本を読むかである。窓が5センチしか開かないのでエクササイズをする気にはならずまったりと一日が過ぎていく。私はここが自分の国なので文句を言ってもしょうがないと諦めている。ただ外国人たちはこれをどう受け止めるか。
 日本はすでに外国人労働者なしでは機能しない国になっている。しかしコロナによる鎖国政策で足止めを余儀なくされている外国人はベトナムだけでも3万人はいると言われている。ランゲージ・ハウスも海外から人材が供給できないままでいると大変なことになる。そして何よりも日本に住む外国人はクリスマスに家族と過ごすことは待ちわびている。今更200年続いた鎖国を再現するわけにはいかない。
 

どうして英語に出会ったか

よく「黒部さんはどうして英語が好きになったのですか」と聞かれる。残念ながら英語を勉強の一つだとすると好きになったことはない。私は英語に出会った時から、この言葉が話せれば世界をもっと知ることができると信じていた。
英語に出会ったのは3歳の時に通っていた米軍キャンプのバレエクラスだった。先生は日本人だったが、生徒のほとんどがアメリカ人だった。「わあっ、お人形さんと同じ髪の色をしている!目の色が違う!」と子供心に外国人に対する憧れの気持ちが芽生えた。その子たちのそばに行くと金髪でふわふわの髪がサテンのリボンで結ばれ、そのピンク色は今までに見たことのない外国の色、着ているレオタードもピンクで、私にとっては絵本の中に紛れ込んだような不思議な感覚があった。その時は英語?という言語の意味さえ知らなかったが、少女たちへの憧れは、私も同じ言葉で話したいという気持ちに変わった。
 その後小学生になってビートルズに出会った。といっても彼らの曲と歌詞である。あまりヒットしなかったが”The Fool on the hill”という曲がある。直訳すると「丘の上にいる馬鹿」となるが、メロディーが良かったので何回も聞いていた。そうしているうちにこの男は馬鹿ではないんじゃないかと思うようになった。当時高校生だった従姉妹が英語好きでそのことを質問したところFoolという意味は愚か者、笑い者、瞑想している人、意識のない人などいろいろあり、この曲の場合は他人からは馬鹿に見えても、本当は真実を知っている者というニュアンスが正しいのではないかと話された。確かにSee the sun going down
And the eyes in his head, See the world spinning aroundという歌詞を見ると実は真実を見抜いている男とも理解できる。もちろんそう理解したのは私自身が高校生になってからだが。
 中学生になり英語が書けるようになると、当時流行ったペンフレンドを探し求めた。貿易商を営む叔父がフィリピンの女学生を紹介してくれた。その時叔父がくれた英語の手紙の書き方という本は今でも大切に使っている。クリスマスカードやお礼文などに使う単語が実に綺麗で品がある。多分今では使われなくなった単語もあるかもしれないが、イギリス人にカードを送る時は必ず参考にしている。中学時代はもう一つミュージカル映画が英語学習の起爆剤になった。
The Sound of musicやWest side storyはセリフが覚えられるほどよく見に言った。特にWest side storyはニューヨークアクセントの強いセリフ、スパニッシュ訛りのセリフなど、今まで触れたことのなかった英語の世界を知り、気がつくと少し英語が話せるようになっていた。
 高校時代は英語氷河期だった。英語を教える日本人教師の文法攻めにあい、英語そのものの興味を失った。句や節など私にとってはどうでもよかった。一体こんな勉強を誰が考えたのかわからないが、将来言語学者になる以外は役に立ちそうもないので勉強をする気にもならなかった。結果英語の成績はひどいものだった。酷い者だったが、英語を話すという興味だけは失せてはいなかたので、友人と帝国ホテルのロビーに座って外国人をナンパしたり、国際貿易コンベンションなどを見つけては出かけて言った。ある時晴海で行われたアメリカンフェスタに行ったら本物のNative Americanが踊っていた。アメリカンフードのプロモーションだった。缶詰やクッキーなど色とりどりのディスプレイと英語の文字に圧倒された。日本の鮭缶やコンビーフ缶とは違って見たからに美味しそうだった。(実際には日本の缶詰の方が美味しいのだが)私は缶詰に英語で書かれたレベルの内容を知りたくて一つ購入するとしばらくそれが英語の教材となった。
 大学になって打ちのめされた。同じ年でこんなに英語の話せる人たちがいるということだった。クラスの三分の一が帰国子女、そしてミッションスクール出身という小学校から12年間私が受けた英語教育の何倍もの量をこなしていて英語が身体中に充満しているかのようだった。この先4年間一体どうやってこの人たちとクラスを共にしていくかを考えると絶望的な気持ちになった。特に帰国子女達の発音があまりに外国人で顔も日本人なのにどこか違って見えた。
それでも何とか卒業できたのはこの帰国子女達のおかげである。日本語がよろしくない彼女達と試験やレポートでGive and takeの協定を結んだ。結果はまずまずであった。ときには出席の返事までしてくれる良き友には今でも感謝している。彼女達と話しているとちょっと外国にいるような気分になることもあり、英語はさておいて海外生活への憧れが芽生えたのもこの頃かもしれない。
 就職活動は英語抜きで行った。なぜか。当時英語を使った女性の仕事といえば商社が主流だった。しかし学生時代の成績がそこそこでは到底超えられないハードルだった。負け惜しみではないが商社には興味もなかった。元来事務仕事が嫌いで30分デスクに向かっていると吐きそうになる。まして一日中オフィスで過ごすなどもってのほかである。キャビンアテンダントも多少憧れはしたが試験がかなり難しいと聞いていたので辞退?させていただいた。結局シンクタンクに入社したが、辞めるときに「久保さんはあの大学出ているのに驚くほど英語ができないんだね。」と言われた。真実である。
 それでも私のどこかで海外への憧れは大きくなっていた。仕事を1年半でやめフリーターとしてインチキな翻訳や通訳をやった。インチキというと誤解されるかもしれないが、要するにプロではなかった。しかし英語のニュアンスを取るのは得意で外国人には重宝された。サイマル社からきた女性通訳にあなたの英語はかなりやばいと言われていたが。あちらは時給1万円(当時でさえである)こちらは¥1000だから言われても仕方がない。ただ外国人と一緒に話しているのが楽しかった。
 結婚して1年目で海外での生活が始まった。運よくNYという街に住むことになり、そこで英語の楽しさを体から感じていた。なぜならそこに住む人はコミュニケーションを何よりも大切なものとし、それが生活の糧にもなっていた。
「楽しい生活を送りたかったら英語で隣人に声をかけてごらんなさい。そこから全てが始まります。」と教えてくれた人たち、このエッセイのタイトルである「どうして英語に出会ったか?」は「人に出会ったから」と簡単な答えで締めくくる。

親の決断

私たちは一度子供を授かると、その子の人生の中で親が決断しなければならにことが何度かある。その一つが学校選びである。乳児期から小学校までの学校選択は親の意思決定に関わることが多い。娘が通っていた西町インターナショナルスクールの卒業式で1人の男子学生がこんな話を披露してくれた。
「僕が5歳の時、突然母親が訪問着にキンキラの帯を閉め、いつもより3倍ぐらい念入りに化粧をして、さあ、行くわよと言われました。僕はどこへ行くのかもわからず、気がついたら西町スクールの面接室にいました。母は今まで見たこともない笑顔で先生と話し、同伴していた通訳が母の話を英語で伝えていました。僕の5歳から今日までの人生は母によって決められました。でもずっと楽しかったし英語も話せるようになったので母には感謝しています。」
この話を聞いて私も子供達をより良い学校へ入れるために必死な思いと決断をした時のことを思い出していた。
 アメリカで私立の良い学校に入るには学校と親の面接が物を言う。まず聞かれるのが家での教育方針、子供との会話、将来像などがあるが、同時に質問の合間合間に親は子供の営業マンとなる。売り込むというと誤解されるかもしれないが、自分の子供がいかにこの学校にフィットし、アカデミックな貢献をし、また保護者である自分たちも学校の行事を手伝いながらより良い学校として継続するための努力を惜しまない。などと奥歯が痒くなるような話をポジティブにかつ自信満々に締めくくるのである。また日本の着物は着ないまでも面接にはコンサバティブな装いで挑む。特にマイノリティーと呼ばれる我々アジア人は清楚であることが好まれるようで、父親は間違ってもTシャツにジーパンはNGである。
面接はもちろん英語だが、たとえ文法的に間違った英会話になったとしても相手に伝えようとする意識が重要視される。私はこんなにも我が子をこの学校に入れたい、どうしても入れたい、お願い入れて!ぐらいなパッションを相手に伝えることが面接官の記憶にとどまる。もちろん子供の学習レべル、特に集中力や思考能力などはしっかりと観察されるのだが、親の面接がどれほど強い印象を与えたかどうかは重要なポイントになる。
 私の子供たちはUNIS(United Nations International School)という私立学校に通っていたが、ある時友人から同じ学費を払うならアカデミックな良い学校に転校したほうがいいと言われた。最初はピンとこなかったが考え始めると確かにその通り、バカ高いアメリカの私立学校に品質が備わっていなければ月謝を払う意味がないという友人の意見を聞き入れた。ここで決断である。良い学校はUNISより学費が高い。また転入はハードルが高い。全てが高いずくめである。
しかし子供の将来を考えると、親がここで決断しなければより良い教育は受けられない。お金は日本にいる母に頭を下げた。転入に必要な書類、前の学校からの推薦状のようなものと成績証明書は準備ができた。2人の娘からはなんで転校しなければいけないのかと散々聞かれたが、貴方たちはもっと良い学校で学ぶべきだと振り切った。当時はひどい親だと思ったに違いない。せっかく仲良しの友達ができ、学校生活も不満がなく、部活動も楽しんでいた。なのに転校とは一体自分の親は何を考えているのか、まさにShe is crazyと言われても仕方ない。
 あれから20年以上経っているが、今娘たちは親の決断を快く受け入れている。社会に出て色々な人々に出会い、それぞれの人たちが人生の節目でチャレンジしていることを知り、アメリカでは井の中の蛙はないことを体験した。
 日本はある意味で住みやすい国である。しかしこのぬるま湯に満足してしまうと湯煙で周りが見えなくなってしまう。時にはそこから出て周りを見渡し、自分の可能性を求めて違う水を味わう、幼い頃からそんな意識を子供たちの中に育んでいたら日本の若者の将来はもう少し明るいかもしれない。

保護者と教師のお付き合い

先日実家の母が93歳という高齢で亡くなった。東京は板橋区にある寺の長女として生まれ、一世紀近くを地元の人々との輪の中で生きた。コロナ禍でお通夜や葬儀には参列したくないという方々が多いと思ったが、母は豪華絢爛な花いっぱいの葬儀を望んでいるに違いないと弟と話し合い、祭壇から昔風の宮型霊柩車まで昭和の元気がそこかしこに見られるお葬式を行なった。参列者のほとんどが90歳前後の高齢者であった。その中に私が小学校2年生の時に担任だった坂下先生の姿があった。現在89歳の先生は、当時新潟から東京に赴任してきたばかりで、壇上に立つと緊張で真っ赤になり、新潟弁も抜けきれない話し方をするが、誠実で裏表のない熱心な教育者だったと記憶している。持ち上がりで3年生の担任になり、同時に児童たちも先生に慣れてきたせいか、そう簡単には言うことを聞かない生徒も増え、授業中のおしゃべりもひどくなったある日、先生はクラスの児童全員に詩を配った。「あっても見えない、あっても聞こえない、あっても話せない、そんな目、そんな耳、そんな口」というようなタイトルだったと思う。この詩を読んでいる先生の声が涙声になり、急にクラスが静まり返った。生徒たちは先生にすまない気持ちになり、一緒に泣いてしまった。しかし翌日からクラスの雰囲気は一変し、誰もが坂下先生を中心に3年2組は素晴らしいクラスに変身した。そんな先生が昔を振り返ってこんな話をしてくれた。
「あなたのお母さんが校長先生や他のクラス担任の先生に声をかけて食事会をしてくれた時、先生たちは本当に嬉しそうだったのよ。ほとんどの先生が地方出身で、東京の人たちと食事をしたり、お酒を飲んだりする機会は全くなかったから、やっと地域が自分たちを受け入れてくれたと思ったの。保護者の方々が手作りでお料理を作ってくれて、本当に家族みたいだったわ。」これは1960年代の話であるが、実際教師と生徒の家族が飲み食いするのは自然なことだったようである。母は音楽の先生とも交流を深め、先生が退任すると直ぐに地元で音楽教室を立ち上げて欲しいと持ちかけた。感性を教育して欲しいというのが目的だった。今ランゲージ・ハウスにあるグランドピアノ、マリンバ、小太鼓は全て先生のご遺言で寄付していただいたもので、すでに50年以上経っているが立派にその役割を果たしている。
時は変わって令和3年、コロナの影響もさることながら、小学校の先生を自分の家に招いて食事会などありえないことになってしまった。PTAの集まりでさえ簡素化し、飲めや歌えをワイワイとやるのはどこか世間様にご迷惑というような、何かを心配して積極的に宴会コミュニケーションをやらなくなってしまった今である。
しかし私は日本人の国民性を考えたい。古来日本の村々には多くの祭りがあり、人と人が集まり群れをなすことで形成されていた。日本人は元来飲み食いが好きで、これがコミニュケーションの形成に役立っていた。そしてメンタルな健全性も提供していた。群れをなすことで自信と力を発揮する国民性は日本人の特徴だと言っても過言ではない。しかし日本人の生活スタイルが核家族化し、考え方も昔とは打って変わった。先日ある調査で日本人が幸せを感じる住居環境とは「静かで侵されない」がトップだった。これを見てアメリカのテキサス州で訪問したシニアータウンを思い出した。このコミュニティーには子供がいない。朝から以上な静けさがあり、ゴーストタウンのようだった。道を歩く老人も決して幸せな顔をしていない。しかし彼らは静けさと侵されない安全を求めてここに移ってきたのだが、私は決して住みたいとは思わなかった。人間は誰でも死んだら十分な静けさが与えられている。
10月から緊急事態宣言が緩和される。とは言ってもまだまだ生活の安全を最優先にしなければならない。しかし少なくとも人の波が戻り、数時間でも飲み食いの日本文化が再生されれば、日本人はもっと元気に働けるようになる。できれば保護者と学校の教師がワインでも飲みながらワイワイと教育論を語る、そんな環境をランゲージ・ハウスで作りたい。

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